2008年11月15日

産地偽装とか残留農薬だとか不正表示なんて…眼鏡

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明太子が大好きですキスマーク生のやつもいいけど、こんなふうにちょっと炙って、少しマヨネーズで和えながら食べるのが、けっこう気に入っているんですキスマーク

さて、近ごろは眼鏡いわゆる食生活の安全が崩壊してしまい、まったく恥知らずな業者の心無いやりざまが、次々と発覚しては…ますます安心して口にできる食品が、どのくらいあるのだろう…もう無いんじゃないか…いや、結局は、すでに今まで散々に毒素を食い込んできたはずだから失恋今さら気にしたってしょうがないじゃあないですか…などと思いつつ、友達と一杯やったりしている昨今ですキスマーク

でも、そういう不正行為して儲けてきた悪徳業者がいるっていうことは…そうさせた消費者の欲求もあったはずでしょう…失恋

ようは、いたずらに食通を気取ったり眼鏡あきらかに必要以上の贅沢三昧などが、あるいは食材の品質に対する過剰なこだわりなんかも、ひいては生産加工業者を異常にあおりたてるような環境をつくり上げてしまったんじゃないでしょうか!?
そういうことにも、まこと昔の人々は賢かった…あらためて僕は、自己反省しながら、そう考えております。虫の食っているものこそが、じつは人間も安心して口にできるものでありまして…また、たとえばキュウリは歪(いびつ)に曲がっているのが自然の本物でありますし晴れ四季の移り変わりに任せきってこそ晴れ旬という味わいもあるってもんだい!!べらぼうめexclamation×2とも思っています。

今晩の肴の一つでありますキスマークこの明太子も…不自然に着色された、しかも、どこで獲れたんだか分からない…そんな一品なんだろうなあ…とか思いつつも、やっぱり食っている僕なんです失恋

それでも有り難いことは、やはり田舎暮らしでありまして…家の庭の片隅(かたすみ)では小さな畑で無農薬野菜を栽培したり晴れ親しい農家の方々なんかもおりますから、安心かつ新鮮で美味しい作物を、安く分けていただいたりもできるから…たちまち、これからは鍋物の季節…僕の大好物の一つであります水炊きとか鶏(もちろん地鶏だぜ)鍋なんかが、いっそう楽しみなことなんです黒ハート

仲良しの陶芸作家さんがこしらえた、お気に入りの徳利とぐい飲みでキュッとやりながら、小粋な小鉢と取り皿に、よく似合う箸を選ぶ楽しみもありますでしょう晴れいや、じつは僕は真冬でもビールのほうがいいヤツなんですけどね…たまには綿入れなんか着て、背中丸めて日本酒を少々ってのも好きなんでい!という、すっとこどっこいなんですよ…ああ、あの娘のお酌で酔いたいんですよう、お侍さん…黒ハート

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 22:31 | Comment(0) | 食生活に思い巡らすこと…

連載長編小説『愛媛国縁起』四回目だぜ!

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愛媛国縁起

覇津華雅(はつかが)

      三
 覇津華雅、若輩の頃より嘉汰耶(かたや)に付従い、軍神の異名を欲しいままにしている大将帥(だいしょうすい)であり、汰雅志嘉(たがしか)が後継してからは、彼の幕僚として、つねに側近将帥の筆頭にある。
しかし、悲しいばかりに嫌われていた。
大将である汰雅志嘉に・・、である。
「あれ(覇津華雅)には、まったく愛嬌というものがないわ」
 戦勝祝の宴席などで汰雅志嘉は、周囲の者達を相手に、吐き捨てるように云うのである。酒のせいもあろうが、時には当人にさえも聞こえよがしに云う。

 もっとも、嫌われる因は、覇津華雅のほうにも確かにあったらしい。汰雅志嘉が後継に決まり、戦勝という祝儀もついて豪勢な酒席が設けられた時の事である。他の側近将帥達が汰雅志嘉の武勇を誉め称えている時などにも、彼だけは黙している。
「覇津華雅様、めでたき酒宴でござりまする。さればこそ、世辞の一つも云いなされ」
 直属の部下らは気を揉んで覇津華雅の袖を引っ張り、小声で耳打ちしたりもする。
「ふむ」
 と、覇津華雅は静かに立ち上がり、汰雅志嘉の前に胡座をかいて座りなおした。
「汰雅志嘉様の戦などは、例えば子供の喧嘩でござる」
 などと、この大将帥は、さも涼しげなる口調で云うのだ。
「何じゃとお。わしは父上の後継ぞ。軍容なども父上のそれを引き継いだものじゃ。それを愚弄するは、父上を愚弄するも同じ事ではないか。ぬしゃあ、ついに処刑を望むかよ」
「それそれ。そのあたりが、なんとも拙うござりまするわな」
 覇津華雅は泰然とし、その唇の端に笑みをのせ、まるで稚児をあやすかのように云う。
「なるほど、かつて嘉汰耶様と吾どもが兵馬を率い、この畿内を切り取り放題にした頃には、それでよかった。しかし、すでに時が移り申した。この地【畿内】に篭もりて国を営み兵馬を養い、いずれ痩せて朽ちる御覚悟ならば知らず、地の東西に新たなる糧を求めんと欲すれば、おのずと軍容も戦法も変えてゆかねばなりませぬ。西には淡道国(あわじにくに)、出雲国(いずものくに)、大賀味国【おおかみのくに=媛国】、さらに遠く筑紫には狗奴国(くぬのくに)、伊都国(いとのくに)、華奴蘇奴国(かぬそぬのくに)などの大国が割拠して在り、東の地を望めば津称奈国(つとなのくに)に長三毛(ながみけ)、宇津味、津保化(つぼけ)、東日流(つがる)六国、蝦夷などが在り申す。かの国どもは大陸との交易盛んにて、国益々富みて兵馬騰(あが)る、と物見【ものみ=偵察。当時は商人などを装って他国を探った】より聞き及んでおりまする。もはや、兵数を頼みの平圧しのみでは戦勝などはおぼつかず、どころか、やがては東西より挟撃され、我国などは進退これきわまりて、いっそ滅するより他にはありませぬわい」
 確かに、これこそが現実であったろう。この頃の邪馬台国は、やっと畿内三十余国を制圧したばかりである。
すでに世は戦乱ひさしく、その戦火は勢いを増すばかりなのだ。

 さても、この時の覇津華雅の云い回しが、よく云い得て面白い。
彼は云う。
「例えば、蛇が大蛙などを呑み込む場面を想えばよい」と・・。
 蛇が、ようするに邪馬台国であろう。
「長い時をかけ、畿内という昔ながらにのどかで肥沃な大地をじわりじわりと呑んでゆき、やっと口におさめたところじゃ。身動きもままならず、腹中でこなれてもおりませぬわ」
 腹中でこなす、とは、しっかりと統治して養分を蓄えることであり、そうして、さらに脱皮(兵を増強)し成長せねば、より広大な領土を呑む事はできない、と云うのである。

 こうした直言を受けつつ云い返せぬ汰雅志嘉の胸中には、暗い嫌悪が沈澱していった。が、汰雅志嘉とて決して愚将ではない。
一四人もいる異母兄弟の内から、特に優れた者として嘉汰耶の眼に適い、十五才を過ぎて後に後継として選ばれた真の実力者なのである。

 ただ、覇津華雅には、どうしても嘉汰耶の存在が大きく映り、汰雅志嘉などはひとまわりも小粒にしか見えない。
歳も違う。この時、覇津華雅は二十五歳を数えており、初めて戦場に出てから、はや十五年が過ぎようとしている。後継となり、実質上の主ともなった若き汰雅志嘉を、この賢しらな小僧めが・・、とまでは思っていまいが、戦場という異常な環境で歳を重ねる内に、その性格がやや傾いてはいた。
平素なら、近在の子供達が彼の屋敷にあふれて遊び呆けるほどに慕われており、諧謔(かいぎゃく)にも長けており、柔和で優しい者であるが、ひとたび戦の事になると人変わりをするらしい。
いわゆる、戦ちゅうぶ【中毒】であろう。嘉汰耶よりは軍才に劣る汰雅志嘉の前では、戦の毒気が先立つらしく、うとまれる事は百も承知で、直言することを止めないのだった。
ただし、たとえ無礼な暴言ではあっても、それが妄言であった事は、かつて無い。
とはいえ、云われる上官からみたならば、おそらくは、もっとも嫌う類の部下ではある。
「他にも、よき者はおりましょうぞ。何より、かの者には・・」
 ここに汰雅志嘉が不満とは、いまだ覇津華雅には妻がないのである。傅人(めのと)になるには、その妻が乳母になるのが慣わしであった。嘉汰耶の定めた事である。

 かつて、嘉汰耶は多妻に産ませた男子を、すべて余所の家にあずけて養育させた。いわゆる里子に出したのである。後継になるやも知れぬ者が、実母の膝の上で甘やかされるのを避けたのであろう。もっとも、いくら軍事に天賦がある嘉汰耶とて、大勢の子に戦の仕様を教え込むのは無理であったのかも知れない。
ようするに、これが家訓となり、汰雅志嘉のこさえた男子も生まれてすぐに皆、選ばれた武将の家に里子に出されているのだった。
当然、その家の妻の誰かしらが乳母となった。

 しかし、覇津華雅には、いまだに妻女がない、のである。
これは、国営において重要な地位にある男性としては、当時、最も奇異な事の一つであり、その点でも覇津華雅は、いわゆる、変わり者なのであろう。
「かの者には、それこそ他人などを住まわせる家すらないものを・・」

 さて、これについても、当人らに代わって多少なりと述べておかねばなるまい。
汰雅志嘉の実父、つまりは都祢那賀(つねなが)の実祖父である嘉汰耶という男、出生地は畿内より陸続きに遠く西方に在った美祢国(みねのくに)である。畿内に移り住むようになった事情は後述するが、この男が新たなる国すなわち邪馬台国を興すにあたり、その都と定めたのが明日香野である。
嘉汰耶が明日香野を制圧した当時とは、都祢那賀誕生より十五年ほど前であったろうか・・、畿内一円には三十余の国が乱立しており、互いに小競り合いを続けていた。
嘉汰耶は明日香野を拠点とし、天性の軍事才能を以て、まるで墨痕が濡紙に滲みて広がるがごとくに周囲を侵略してゆき、蜘蛛が巣を張るかのように大軍移動用の道を造った。
明日香野には、時と領土の増すごとに人々が集い、卑弥呼の宮をはじめとする貴人の屋敷が建築されて、その周辺に大集落が形成されていったのである。

 まず、嘉汰耶が畿内に入り、たちまちのうちに近隣を平らげてしまった。その明日香野の地には、大勢の川漁船が楽に気ままに走り回れるほどの大池が在る。
「この大池の水上に、大なる高床の宮を建てよ。そこを卑弥呼の住む宮殿とする」
 すなわち、そこが都心となった。その大池の周囲を防御するかのように、嘉汰耶の幕僚どもの屋敷が縄張りされたのである。なみいる幕僚の内にあって、筆頭たるべき覇津華雅の屋敷は当初、大池の西岸に土地を割り当てられていた、という。
 が、覇津華雅はこれを蹴った。この男の可愛げの無さは、そればかりでない。
「嘉汰耶様、まずは大路を考慮せねばなりませぬ」
 と、眼を据えて進言したのである。
「大池を天然の掘割として利用するはよろし。然ながら、その防御には東西南北の地形を活かしつつ、大軍を往来させる事のできる大路を敷き、周囲の敵の侵入を拒む要所にこそ、軍を駐在せねばなりませぬのぞ。蜘蛛の巣のごとき自在を想わねば、攻守もままならず」
 さながら頑是なき童にでも云い聞かせるような口ぶりには、さすがの嘉汰耶も思わず、むっ、としたらしい、その鋭い眼を据えて云い返している。
「あえて、うぬに云われるまでもないわ。それは、わしの案中にある」
 部下としては、こうした機微に畏まるほどの可愛さが、ついに覇津華雅には無かった。
「されば吾の屋敷なる土地は西方の、その防御の要所にこそたまわりたい」
「いや、うぬは、わしが側近に置きたいのよ」
「よもや、それかしの謀反気などを、お疑いかや」
 覇津華雅は、ずけりと云い、つい嘉汰耶は釣られてしまったらしい。
「阿呆めが。微塵もないわ」疑心など・・。
「さればこそ、でござる。重ねて無心いたしまする。それかしを西方の守石と置かれよ」
 この会話、まさに覇津華雅の戦略勝ちであったろう。結局は、許された。

 他の幕僚将帥達は大池の周囲に屋敷をもらい受け、快適な高床の立派な住屋を建てたのだが、覇津華雅は縄張りされた広大な土地の一角を掘り、庶民が住むのと同様の旧態依然とした、いかにもつつまし過ぎるであろう、いわゆる苫屋を建ててしまったのである。
「大将帥の位を何と心得るか。大層なる屋敷も、これ威厳の内ぞ」
 嘉汰耶は渋い顔をしたが、覇津華雅は、素足に蟻が這い上がったほどにも気にしない。
「そも、それかし軍人にて常住する家屋敷などはいらず、嘉汰耶様が進撃さるる大地こそが住処でござりまする。ただ、広大な敷地だけは、そのままに頂きたい」と云った。
 都の建設が進むにつれ人口も増え、土地には家が立ち並ぶであろう。平素、いついかなる時にも気ままに武術を練り馬を責む、そんな場所が欲しい・・。と、この戦ちゅうぶは、無愛想なる真顔で云うのであった。

 覇津華雅の広大な屋敷は周囲を土塀と竹垣で結いまわされたが、その庭などは草木が天然のままにのび、その中にぽつりと古びてゆく苫屋が、むしろ凄みを増してゆくばかり・・。
気の荒い盗賊なども、朽ち果てた竹垣と土塀にも手すらかけられないのである。
「もっとも、留守を狙うて忍び込んでも、わしの家には盗る物なども無いがのう」
 年を経るにつれ屋敷の周りには人々が集い、皆が、大将帥らしからず気さくな彼を慕った、という。
子供達にとっても安全で、かっこうの遊び場であった。朽ちた竹垣の八方から自由に出入りし、気の合う者どうしで徒党を組んで喧嘩や戦遊びに熱中するのであった。

 こんな有様の男などには、とてものことではなしに、いずれ後継となるやも知れぬ吾子を預けるわけにはゆきませぬわな・・・と、汰雅志嘉は眉をひそめているのである。
「何事も、欲すれば叶うものじゃ。高床の住家などは、すぐに建つわ」
「妻もなく家もない男に、なにゆえ、それほど執心なさるるか」
 汰雅志嘉は、ついに煮えきらない。
「お主、それほどに覇津華雅を好かぬか」
 しぶとくも不満げな汰雅志嘉に苛立ったらしい、とうとう嘉汰耶は眼を据えた。
「確かに好きませぬ。が、かの者の武勇が優れし事も認めておりまするのぞ」
 汰雅志嘉は、好き嫌いで部下を差配するほど愚かではない、と云いたいらしい。
また、傅人となれば、預かった男子が初陣を果たすまで兵役を退かねばならないであろう。
「国を肥やし、兵馬を養うためにも、さらに領土を広げねばなりませぬ。何より、いまだ国内が治まりきらず、あちこちで叛乱のきざしも聞こえまするぞ。かの者に兵を預けねば、どうにも手が足りませぬ」
 とも云いつらねたのは、自身の有能を売り込んだのである。
「お主が、それほどに重用し、かつ使いこなしておるようには見えぬがのう。何、お主が無能じゃとゆうておるのではない。しかし、まだまだ場数が足りぬ。かの者【覇津華雅】を御しきる事は叶わぬわい」
 と、さすがに嘉汰耶は軍人らしく、将来を託すべき嫡子には手厳しい。
「然ながら、それとこれとは・・」汰雅志嘉は、まだ愚図った。
「違わぬわ」嘉汰耶は決めつけ、ぐいっと盃を干した。
「あれ【覇津華雅】が軍才は、あるいは、わしより上かも知れぬ。少なくとも・・」
 嘉汰耶は盃を突き出して汰雅志嘉に持たせ、手ずから酒壷を取り上げて酒を注いでやった。そうして・・
「お主よりは勝っておるには違いない」
 と真顔で、ずけりと云った。
汰雅志嘉、かすかに手先が震えている。それを隠すかのように盃に顔を近づけ、酒に唇を濡らすや高々と肘を張り、一気に飲み干した。が、それくらいの芝居で嘉汰耶は欺けない。
「口惜しかろう。だが、一方では、その大将らしからぬ狭量では、軍がまとまらぬのぞ」
「・・・御意」
 もう立つ瀬もあるまい息子を、ふと救うてやるほどの優しさが、嘉汰耶にはある。
「わしとても、じゃ。時々な、今となってなお、夢を見ることがある」
「・・夢とや」
「かの者が手勢を率いてな、わしに攻めかかる夢じゃ。これには、うなされてのう」
 寝床の上で、飛び起きると・・、もう寝汗にまみれておるわいなあ・・。
「それは、また不吉な・・」
「わしの一生涯の幸と云うたならばなあ、かの者を敵にまわさなかった事に尽きる」
「・・いやはや・・何とも、すさまじゅうござりまするな」
「覇津華雅を軍より外す。そのかわり、大将としては、軍勢を今より以上に引き締めよ」
「はっ」
 ようやっと汰雅志嘉は畏まって納得し、伝令兵の困惑は霧散したであろう・・。

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 10:50 | Comment(0) | 連載長編小説 当ブログ用

盗撮!?ストーカー!?セクハラ!?差別!?いや、僕の場合は断じて違います!!

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じっさい、ディア アインシュタインの冒頭にも明記宣言しておりますように…僕は、本当に心の底から黒ハート女性という存在のすべてを尊敬してやまない男です晴れ
また、以前、このブログにも書いたように…

惚れた女性の裸イッパツにかなう芸術は無い!!

とも信じて今日まできた男です!!あるいは、あの娘への恋心【神仏も御照覧あれ!!まさしく純愛だぞ晴れ】が、僕の創作力の根源であり、かつ生きてゆく活力そのものなのです黒ハート

このことは…人類有史上に観ても同様であり、現在に伝わる遺跡にも刻まれ、たとえば絵画などに巨匠といわれおります芸術家の人々の人生などにも明らかな情景に違いない!!と…僕は考えているわけです晴れ

先日…確か、ズボンを履いた女性のお尻を撮影して有罪とした判決がくだされた…というニュースを読みました失恋もちろん詳細は知りませんけどね、尾行してまでカメラしたり、あきらかに女性に不快感を与えた、という行為そのものには眼鏡僕も罪を問いたいと思いますexclamation×2
しかし…僕にとっては…昨今に街ゆく女性の方々は、美しすぎる、あるいは綺麗だし可愛い…ふと見とれたりしますし、もし許されるならカメラもしたいし揺れるハート不意にも内心では…いわゆる劣情めいた妄想が脳裏をよぎることだってあることも、確かな事実なんです!!揺れるハート

そんな僕ですので、女好きのスケベであることを晴れあらためて明記宣言する次第です。が、これは…男女ともに共通するものとして揺れるハートおよそ異性によく想われたい!!という感情がなくなってしまったなら…たとえば僕の場合には、ステージに立って演奏するようなことはあきらめたほうがいい!!とも信じております晴れ

したがって、いつの日にか、僕が日本国の首相となりましたあかつきには、有名AV女優さんや風俗嬢やストリッパーの方々を国家公務員といたしますことを、ここに公約するものであります晴れまた、昨今の時流をも考慮しては、その方々には定年を設けぬ自己申告制度を整え、むろん退職金に恩給も付与いたします眼鏡

ただし、やはり大変な難関ともなりましょう厳正な採用試験【実技あり】は実施しますが…その具体的な詳細については…試験問題漏洩になりかねませんので、この場にて述べることは、慎みつつ控えさせていただきたい…とも願いおります晴れ

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 10:21 | Comment(0) | 縁ある人々

2008年11月14日

愛媛国縁起(三回目だぜ!)ジャパニーズ・セクシャル・ダイナマイトスペシャル!

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愛媛国縁起


覇津華雅(はつかが)
     一
「およそ、この世は泡沫(うたかた)にも似て、まことなるかな浮世ともいう。浮世に棲み暮らす人の一生などは縁という糸で織りなす一反の、せめて願わくは錦のごときものでありたい」
 いにしえの、生命震える初陣にて都祢那賀(つねなが)が吐いた言霊(ことだま)の煌めきは、現在もその輝きを失わずに在るようで、吾(あ)【乃麻埜=のおの】の気魂に深く染み入るものであった。

 そも吾が『愛媛国縁起』を起草するにあたり、この『媛国攻陣始末記』なる奇古書に出会えた事も、伊志都知(いしづち)という太古よりの霊山が結んでくれた、摩訶不思議なる縁(えにし)というべきであろうか。
吾は、霊峰伊志都知の山懐(やまふところ)に草木を結いて庵(いおり)となし、山菜と炭を商いて口を糊(のり)しながら物を書いている。
同じ神野郡でありながら山里と下里で交流もままならぬ険路であるというに、他国人などは〈霊山詣=れいざんもうで〉と云うて登ってくる者が多い。
 そんな中には国中を渡り歩く行商人などもいて、ある年の夏、泊接待の御礼に、と置いていってくれた古草紙(ふるそうし)の束にまぎれていた。なかなかに分厚いそれを、手に取ってめくって見れば汚れてあちこち虫食いの雑紙(ぞうし)の表裏にびっしりと書き付けられているのは、およそ文字とも思えぬ。されど子供か狂人の洒落書にも見えず、捨てずにとっておいた。

 これが何か、と解る日は、思案の外に早くきたものである。
教えてくれたのは、諸国を旅してまわる出雲の、歩き巫女(みこ)であった。伊予ノ二名ノ島に入ったからには霊山参りを思い立った、という、その歩き巫女が吾の棲む山里にあがってきたのは晩秋の、満山紅葉に彩られて晴れた日の夕暮れ頃であった。

「軒の下でもかまいませぬゆえ、せめて夕餉(ゆうげ)と、願わくは一夜の露しのぎを,、お許し賜(たも)ろ」
 見やれば十七八の、巫女結いの黒髪や衣などは旅塵(りょじん)にうす汚れてはいる。が、涼しげな眼が気に入った。何より、山の夜は冷える。中に入れてやり、まずは山芋粥(やまいもがゆ)で身体を温めて、近在の寺から下された酒【神仏に御供した後の、いわゆる〈お下がり〉】を食らいながら旅の四方山話(よもやまばなし)に聴き入っているうち、歩き巫女の生業でもある伽(とぎ)をつとめてもらう事になった。

 肌を合わせれば自然と情もわく、というもので、寝床で吾の夢を語ったところが、この巫女めは空相槌(からあいづち)ばかりでうつ伏せたまま、ついには、枕元の草紙に手をのばして読み始めたものである。
巫女の美しさが小憎らしくもあり、今一度は犬の狎褻(まぐわい)よろしく、尻から責めてやろうか、と思うた途端に
「あっ」
 と声を上げ身をはね起こして驚いたのには、吾こそが驚いた。
「これを、どうして手に入れた」
 と問われて、まず事情を語り、読めるのかえ、と問い返せば
「少しは読めまする。これは巫女文字ともゆうて、神代の昔より伝わるものです」
「ぜひとも読んでくれや」
「妾(わらわ)はいまだ無学にて、この古文字のすべてを読みくだす事は叶いませぬ。されど故郷の長老ならば、おそらくは・・」
「何を綴っておるものか、だけでも教えてくれや」
 巫女は暫く黙って一穂の灯明の下に寄り、熱心に眼を凝らしていたが、やがて顔を上げて云う事には・・
「かつて邪馬台(やまたい)なる国が在り、媛なる国を攻めたらしゅうござりまするなあ。邪馬台国は畿内三十余国を治め、媛(ひめ)は何と、この伊予ノ二名ノ島に在ったらしい」
「ええっ。この島で〈ひめ〉と名付くは二ヶ国、ここ愛比売(えひめ)と大宜都比売【おおげつひめ=現在の徳島県】とある。どちらじゃ」
「伊志都知の名が出ているからには愛比売でしょう」
 それはでかした、頼む、全部を読んでくれ、この通りじゃ、と裸身のまま平伏懇願(へいふくこんがん)したが
「古文字は難しゅうて無理です。ぜひにも読み下したいなら出雲へ参られませ」
 とぞ云う。
「吾などが行って、しかも初参りじゃに、その長老には目通り叶うものかや」
「仏教が流行って久しい。出雲の大社詣(たいしゃもうで)は寂れるばかりにて、巫女どもは妾のように行脚(あんぎゃ)してまわらねばならぬ有様じゃ。寄進(きしん)をはずめば、たとえ乞食(こつじき)でも賓客(ひんきゃく)の扱いでしょう」
 かくして吾は決心して山を降り、瀬戸内海を渡って出雲へ詣でたのであった・・・。

 はてさて、物語の大路をはずれて話の辻道を行き過ぎたか。
ただ、この長い物語の合間には時折、こうして辻道に迷う事をも、読者諸氏には許されたいが如何なものかな・・。
では、そろりとふたたび、古物語の大路へと戻ろう。

    二
 暫し、時をさかのぼらねばならない。
都祢那賀(つねなが)の産まれた頃に、である。
《都祢那賀の産まれし時、天もまた初陽にて地をあまねく照らし、潮満ちて、これを祝う。山河に新緑の風薫り、花咲き乱れて大地に溢るるなり》とある。都祢那賀は、ある春の日の早朝、満潮と御来光【陽の出】の中に生まれたらしい。
が、彼の誕生を天と地が祝った、というくだりは、後に都祢那賀が常勝大将と讃えられてから書かれたものであろう。
 当時は一夫多妻が慣わしであり、汰雅志嘉には撫子の他に八人の妻達と、すでに七男三女の子があったし、都祢那賀の幼少時には、祖父である嘉汰耶でさえ疎み嘆いたほどである。
彼の出生、その高貴な身分の他には決して恵まれたものではなかった、と察してよかろう。

 ただし、確かに一大事ではあった。
夜半、撫子(なでしこ)が産気づいて産屋【うぶや=母屋=おもや、ともいう】に移されたのは、やや欠けた月が天空の高みを極めた後、地に向かって傾き始めた頃である。都中が深い眠りに包まれていた。
寝静まっていた嘉汰耶(かたや)の陣屋敷だけが、にわかにあわただしくなり、急使を命ぜられた兵士が淡い月明かりを浴びつつ、宵口(よいのくち)の通雨(とおりあめ)に湿った大路を馬で駆け抜け、卑弥呼(ひみこ)の暮らす水上宮へと入り、さほど間をおかず宮中から駕篭馬車(かごばしゃ)を先導して同じ大路を引き返す時には、馬蹄(ばてい)と車輪の響きに夢を急がされた大路沿いの都人達が
「何事ぞ」
 などと、ひそめきつつ道端に這い出し、それを見送った、とある。その、軋む駕篭内で揺れに身を任せているのは巫女が三名。
内の一人が女王卑弥呼であった、という件が、それすなわち一大事であると、確かに物語っている。

 当時、およそ性に関する事どもはすべて神事である。ことに出産は、まさに神秘の力によって新たなる生命を現世に導くわけで、その最たるものと云っていいであろう。巫女とは、助産婦でもあった。
ただ、いくら性事とはいえ、女王自らの介護とは、すさまじい。

 現在、巫女は、神社に行けば見かけられよう。初詣(はつもうで)なら、白衣に赤袴のかっこうで御守などを売る早乙女(さおとめ)の事である。
一見、古式にのっとっているかのようだが実はまったく違う。
 ここで、古代の巫女なる者について述べておかねばなるまい。
もとは〈巫=ふ〉と読む。
この〈巫〉とは男女を問わず、およそ、神事のすべてを司る者、を指して使われた文字である。ところが、いつの頃からか〈巫〉は女性に対してのみ用いられるようになり、ついに巫女となった。
男性の〈巫〉は覡という文字で区別されている。

 さて、なぜ女性に限られ巫女なのか。
一言でいえば、生身に生命の神秘を内包している、からであろう。新たなる生命を胎内にて育み、やがて現世に産み出す力は古代人にとって神業にも等しく、まさしく絶大であったはずである。
古来、豊かな生命を育む天然(大海や大地)を〈母なる〉と形容し、女性と考え表す事からも、それは容易に察せられる。

 また、女性の〈生理〉が、天空に浮かぶ月と密接な関係を保っている事をも、すでに古代人達は知っていた。
 また、これらの事実は不可思議なるかな、人種や国などの違いを越えて共通する概念なのである。天然崇拝、自然信仰、精霊信仰などが絶対であったろう古代世界で、神々と交わりながら神事を行う時に、すでに天然(生命の源)と一体化している女性の方が霊力が強い、と考えられるのは無理もなかろうと察する。
 加えて重要なのは、その性事である。古代世界は現代世界ほどに、性事そのものが堕落してはいなかった。
それこそが、すなわち神事の一つだったのである。

 およそ古代の神事とは、祈祷や占象だけにとどまらない。
天文学、医学、生物学、統計学、数学等々を含み、それぞれが実に精密に組み立てられていた。つまり巫女とは、現代にいう科学者でもあったのである。

【邪馬台国滅亡から四百年ほど後に記された、この『愛媛国縁起』の中でも、乃麻埜は
「不老不死でもあったかのような卑弥呼とは何者ぞや」
 と自問し、あるいは一女性としての個人名ではなく、太古より倭国に存続した巨大な巫女集団の組織名ではなかったか・・とも推察している。】

 そんな中で〈性事〉も巫女の司る重要な項目であった。
性交する事で本能を解き放ち、己の持つ霊力を最大極限に高めつつ、ついに願望成就の呪法をほどこすのである。
 いやはや、つい、余談が過ぎたか。ともあれ、古代の巫女達は、現代における科学者であり、医者であり、もちろん、神に祈りを捧げて民衆と神々を仲立ちする存在でもあったのである・・。
 ともあれ、ここらで話を戻したい。卑弥呼が、嘉汰耶屋敷に到着し母屋に入って後の、吉報を待ちわびる住屋内にての情景に、である。

「男児ならば、よき傅人を決めねばなりませぬ、父上には誰ぞ案中の者がおりまするか」
 汰雅志嘉(たがしか)は、さも興なげに寝覚ましの酒などを口に運びつつ、嘉汰耶に問うてみた。
「うむ、多少の難はあるがな」
 と呟き、嘉汰耶は胡座(あぐら)をかい込みて、太い丸太の屋台骨に 背をあずけ、開けばぎょろりと鋭い眼を、いまは半ばとじて微動だにしない。戦場にて半生を費やした老人の顔には、深い皺が幾重にも刻まれ、皮膚は陽に灼けて磨き上げた鉄のごとくに黒光りしており、長く伸びた頭髪や顎髭は、見事な白髪であった。

 待ち遠しくもある時が過ぎゆき、はたして、夜明けとともに生まれたのは男児であった。
「覇津華雅を呼べ」
 嘉汰耶は静かな口調で、高床(たかゆか)の廊下に侍っていた近衛の兵士に命じている。
「・・・覇津華雅とや」
 汰雅志嘉は露骨(ろこつ)に眉をひそめ、声に不快をあらわした、とある・・・。

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 09:37 | Comment(0) | 連載長編小説 当ブログ用

2008年11月13日

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 21:33 | Comment(0) | 眠れない夜のお伽噺

愛媛国縁起の始まり!はじまりぃ!!

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愛媛国縁起

『愛媛国縁起』
【乃麻埜(のおの)『媛国攻陣始末記』を物語りて・・・】

序章

 須磨ノ浜(すまのはま)から船をこぎ入れ、葦原(あしはら)の湿地帯を左右に見つつ川を遡(さかのぼ)り、菊水山(きくすいやま)のすそ野まで上がると、鵯(ひよどり)という在所である。
鵯はきぶい崖を背にした小さな村で、農耕や漁業を営む人々が、のんびりと暮らしていたが、都祢那賀(つねなが)が、邪馬台国軍を率いて近隣の小国を攻め滅ぼした後に陣屋を構えて、周囲に兵馬を配したため、畿内から大勢の商人達が移り住むようになった。

 都祢那賀は鵯に居座り、須磨港に水軍を集めて淡道島を攻め落とし、周囲の海域を縄張りとしていた海賊どもを制圧、そのため貿易に訪れる異国人が急増し、須磨周辺は急速に開けた。
 湿地帯が徐々に埋め立てられ、商人達が露店を広げたものだから、ありとあらゆる物資が集まり、いわば国際的な市場が出来上がったのである。
『媛国攻陣始末記(ひめのくにこうじんしまつき)』という古文献には《鵯村とは、もともと四十八戸であったが、都祢那賀が陣屋を構えて半年後には三百二十三戸、海上を制圧した後には千余戸》とある。《これらは、すべて一年半以内の出来事である》ともいう。

『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に、伊都国(いとのくに)千余戸とか対海国(つまのくに)千余戸云々と記されているのは、この当時から約半世紀余前の場景である。
自然的人口増加を考慮したとしても、ひなびた田舎の里が二年足らずでちょっとした小国に発展したような騒ぎであった事は間違いない。
また『魏志倭人伝』によると《邪馬台国は三十余の小国が連合し、卑弥呼を女王として成立した国である》となっている。

「然ながら、それは大陸から観た話だ」
 と、都祢那賀は、断じて云うのである。
「倭国など未だ存在せぬ」とも云う。
「大陸を向こうにまわし、なお堂々たる一国を、たった今より、俺が創り上げるのぞ」
 五年前、明日香野(あすかの)の本陣に居並ぶ幕僚(ばくりょう)に対して、この若者が宣言した言ノ葉である。
この都祢那賀に云わせれば、倭国どころか、自身が産まれ育った邪馬台なる国さえもが無い。それもまた、大陸側が勝手に付けた名称に過ぎぬ、と云うのである。

なるほど、倭国(わこく、もしくは、わのくに)、というのは当時の大陸で用いられていた日本への呼称であるし、何よりの証しとて、倭、という文字には《小さい》という意が含まれて在るではないか。古代日本は、けっして大陸の属国などではなかったのであり、自らを「倭国」などとへりくだる道理など、これは無い。
自らを倭人などと、さも自嘲する謂われも、また無いのである。

 この当時の倭国における〈国〉というものの概念は、現在とはまるで異なるであろう。現在の小さな郡や郷や村ほどの広さの土地に、王や女王といった首長(しゅちょう)を中心に群れた集落を国といい、さほど明確な国境線を保たない。
何しろ小規模であり、隣接する事も稀で、たとえ隣接しても、争って奪い合わねばならぬほどではなく、むしろ協力し合ったほうが快適に暮らせた時代であった。

 ところが卑弥呼が〈親魏倭王〉の金印を手にする、わずか八十年余前頃から、にわかに世が騒がしくなってきたのである。
大陸との交易が頻繁(ひんぱん)になり、充実してゆくにつれ、その利権が膨らんでゆく・・、と想えばいい。
交易の規模が拡大すれば、その分輸出する物資が必要になる。
一国の領土が広いほど賄える物資も多くなるのが道理であろう。
列島に点在割拠する各国とも、より肥沃で広大な地を求めて動き始めたのである。大陸では後漢と呼ばれている時代で『後漢書(ごかんしょ)』には《倭国大乱》とある。
ともあれ、このあたりの事情は、追い追いに述べてゆきたい。

 都祢那賀は、邪馬台国の軍事総司令である嘉汰耶(かたや)という男の直孫であり、その身は、畿内以西制圧担当軍の大将軍である。この時、齢十九というから前述の言葉を吐いたのは、弱冠十四の頃であろう。
もっとも、当時としては歴とした大人ではある。

 しかも、この若者は血筋による成り上がりでもない。
初陣は、八歳の頃とも十歳であったともいい、側近として従軍した将帥(しょうすい)から「軍神におわす」と絶賛されたほどの軍才を持っている、と吾(あ)【乃麻埜のこと】の手元にある奇古書は云うのである。
 また、卑弥呼の孫娘である那薙(なち)姫とは許嫁の仲であったらしい。これは、すなわち事実上、邪馬台国の後継者と見ていいであろう。無論、当時の周囲も、それを認めている。

「もはや、世も末か。近頃の若衆は、礼節をわきまえぬわい」
 嘉汰耶などは、年寄衆(としよりしゅう)を前に、盃を傾けつつ嘆息しているが、これには多分に喜悦が含まれているのだった。
が、しかし、都祢那賀の初陣以前には本人を前にして
「男に美貌など無用じゃ。敵のみならず味方の兵にも侮られるわ」 
と本気で憂いていた、ともいうのである。
この若者は「都祢那賀様ほどに生まれたかった」と、都に住み暮らす女性達がつい溜息をもらすほどの美形だったらしい。

 幼少の頃から、いわゆる猿松【さるまつ=腕白】であったが、もとが名門の家柄であるためか周囲に叱る者がおらず、皆が・・
「なにせ陣屋敷の若子様だから」
 と遠慮した、ともいう。
初陣後には酒と女の味を覚え、那薙と云い交わすまでは手がつけられぬ放蕩ぶりであった。この若者の実父は、嘉汰耶の実子である汰雅志嘉(たがしか)といい、母の名を撫子(なでしこ)という。
「いつまでも、子供みたいでは困ります」
 撫子は、毎夜のように小言をいって嘆息したが
「男はそれでいいのだ」
 と、むしろ汰雅志嘉は喜んでいるかのように見受けられる。

 ある日の事、撫子は意を決して息子を呼びつけ、説教しようとした。
「都祢那賀、そなたは、なぜ、そんなにも行儀が悪いのでしょうね」
「これは母上。なぜ、と問われましても困りましたな」
「そなたが、周囲の者達から何と云われているか、母は知っております」
「ほう、やつらは俺を、何と呼ばわっておるのでしょうや」
「戦にはお強うおわすが、暴れ者で恐ろしい若子(わこ)様じゃと申しておるそうですよ。しかも女など引き連れて酒など浴びるほどに呑んで、気にさわるような事があれば喧嘩などして、そなたの顔色をうかがうのは大変だ・・、と申しておるそうです」
「困ったな」
 都祢那賀は、その癖で、ちょっと小首を傾げて考えこむ仕草をした。
「何がです」
 撫子は、つい、つられて・・心配そうに聞いた。
「母上が」
 と、彼は母の顔を覗き込み
「えっ」
 と、撫子は驚いた。
「こんなにお美しいのに、小言ばかり申されておりますと・・小皺が増えまするぞ」
「つっ・・都祢那賀」
「きゃっ」
 都祢那賀は甲高い声で嬉しそうに一声笑い、上機嫌で、ぱん、と手を打った。
「それでは母上・・本日の説教は、これにてご勘弁を」
「おっお待ちなされ、都祢那賀、まだ、母の話は終わっておりませぬ」
「酒場で女達が待っておりますれば・・、これにて失敬」
「都祢那賀」
 母の叫びを置き去りに都祢那賀はさっそうと出てゆき、撫子は深い吐息をついた。

「まあ、よいではないか」
「戦に強いからと、あなたは都祢那賀に甘過ぎます」
「やれやれ、今度は、わしに飛び火したか」
「あなた」
「そんなに心配せずとも、そのうち収まるわ」
「どうして分かります」
「わしが、そうだったからな。そちに出逢うまでは、あれと同様だったのよ」
「・・まあ」
「那薙姫様との許嫁がととのったならば、あれも大人しゅうなるわな」
「本当に、そうでございましょうか」
「案ずるな。男とは、そうしたものじゃ」

 当時、傾(かぶ)く、という表現は、まだ無い。が、もし在れば都祢那賀は「傾き者」と呼ばれたかも知れない。
まず服装が派手、と云うより変わっている。衣料は、麻が一般的で男はゆったりとした筒袖(つつそで)に、下は裾を絞った筒袴(つつばかま)をはいて、草鞋(わらじ)をつっかけるのが、いわゆる普段着であった。
【例えば現在、僧侶が着る作務衣に似ている・・。】
女は耳や首周りに身分相応の装飾品を付け、裾が足首を隠すほどの長い筒袖(丸首で、頭から被るようにして着る)を装い、腰紐を巻いている。男女ともに、下帯などは着けていない。
髪型といえば男は総髪で髷(まげ)は短く、女は腰の辺りまで伸ばして、撫で付けずにゆったりと結っていた。

 しかし、都祢那賀は髪を結えぬくらい短く切り、衣は藍色や淡い赤などに彩色した物を用いる。しかも、これが兵士達の間で流行った。
普段、軍装を解いていても兵士だと分かるようになった。
「長い髪は、戦のじゃまだ」
 と、都祢那賀は云っているが、彩色についての理由は述べない。
ただ、兵士達がこぞって着始めた頃には、女物を着て出歩いたりもしているあたり・・、嫌なのであろう。人と同じ事が、である。
「なぜ、女物などお召しになるのです」
 と、那薙が聞いた事もある。
 すると、この若者はわずかに口許を弛めて
「しやすかろう」
 と応えた。大和語(この当時なら倭国語とでもいうべきか)では、主語を省く表現が珍しくはない。都祢那賀の場合は、それも語り癖の一つのようで、特に軍令など発する時などには、しばしば聞かれた。
軍令などは短言端的を是とす、と、常に訓令している。
那薙に対して答えた主語は、狎褻(まぐわい)であろう。
ともかく諸事、破天荒(はてんこう)な若者であったようである。


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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 08:43 | Comment(0) | 連載長編小説 当ブログ用

2008年11月12日

弥生時代、邪馬台国、卑弥呼、そうして僕ら日本人すべての御先祖様方に捧ぐ・・・

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愛媛国縁起

まえがき
 かつては小柄な肢体をたおやかに海に浮かべた、それは美しい女性(にょしょう)であったらしい。
四季のおりおり、天然の化粧(けわい)を優雅にして華麗自在(かれいじざい)に着飾る姿は、天上におわします神々にも深く愛でられ、ゆえに精鋭無敵(せいえいむてき)なる数万騎天兵(すまんぎてんぺい)にて守護されていた・・、ともいう。

 しかし現在、この美しかったはずの日本は〈病からげ〉にて、まさに、今はの際にある。もはや、かつての美は風前の灯火(ともしび)であり、その痛ましさは同情の域を越えてしまい、病巣の醜態と腐臭は、ついに海外の嘲笑をも浴びるにいたった。
 いつ発病したのか、どこがどう悪いのか、まず何をどう手術すればよいのかまでを、この女性(にほん)に育まれている人々の大多数が知っていて、しかも執刀の主権を掌握しているにもかかわらず平然と棄権し、さらに自嘲の笑みさえ浮かべつつ日々に惰眠(だみん)をむさぼっている、とは、いったい、どうした事なのであろう。

「この大地こそが、すなわち吾らの母様ぞ。この、日出(ひいづ)る国の子らぞ、吾らは」
 現在にいう弥生(やよい)の世を、電光石火のごとくに生命煌(きら)めかせて生きた都祢那賀(つねなが)という若者が、愛もて、かつ全霊を込めて凛々(りんりん)と叫び上げたものである・・、と、現在に伝わる言ノ葉である。
日本国の土台とも云っていい農耕が本格的に始まったという時代に、天然の恵みをもって一切生命を育んでくれる大地を〈母〉と称した若者の、この一言に惹かれ、ただそれだけで、僕にとっては難解極まる、この古く長い物語の現代語訳を決心したものである。

 さても日本史にも聞き慣れない〈都祢那賀〉なる若者を、古の先人は《邪馬台(やまたい)の貴種(きしゅ)にて美形なり。内心に気魂充溢(きこんじゅういつ)して奔放不羈【ほんぽうふき=才識すぐれ、かつ常規で律しきれない。】の性(さが)を保ちて生まれ、軍事をよくし、酒と女性を、こよな【格別に】好む》と書き残している。

《大海に、大白鯨神(だいはくげいしん)真坐阿(まざあ)おわしまし、深海より地を圧し上げて国土を造りたもう。天空より八百万の神々、来臨影向(らいりんようごう)なしたまいて伊志都知(いしづち)を生み、真護(まご)と納南(なな)なる二柱(ふたはしら)の神が御合いして媛(ひめ)を産みたまえり。
森羅万象(しんらばんしょう)の主神々(ぬしかみがみ)、これをことの外に喜びて、媛を愛でつつ詔(の)りたまうに・・・
”我ら永劫(えいごう)、この伊志都知にて媛を守らしめん”
”然善けむ”
 と・・。》
 これが、天平三年(七三一年)に書かれた『愛媛国縁起(えひめのくにえんぎ)』という物語の冒頭である。
これから記そうとするのは、この『愛媛国縁起』の意訳なのである。

 さあ、いよいよ書き進める前にとて、多少の余話を挿んでおきたい。この物語が記された時代背景などである。
 まずは、この、わずか四行のために著者は処刑された・・、と『愛比売国風土記(えひめのくにふどき)』の神野郡(かみのごおり)という頁に出ている。
著者の名は乃麻埜(のおの)といい、罪名は「不敬」となっている。はて、何に対する不敬か。もちろん大和朝廷に対するそれであろう。神野郡は大化改新時に置かれ、孝徳天皇の一族が郡司(こおりのつかさ)に任ぜられて子孫が世襲し、これが新居(にい)氏の祖であるが、その後も新居氏は様々の姓に分派しつつ、神野の地で繁栄している、という。つまり土着民にとって、神野郡を治め始めた一族は、いわゆる〈余所者=よそもの〉であり〈余所者〉は常に、ただひたすらに勤皇の一族、であった。

 それでも、大化改新(たいかのかいしん)から百年近く経った聖武天皇の治世には、ずいぶんと在所になじんできたであろう。とはいえ、まだ〈余所者〉の匂いが濃厚であり『愛比売国風土記』には《過ぐる白雉九年、倭国(わこく)の大事(おおこと=白村江の戦)に勤皇して後、いまだ些かも変わらず》と、ある。その新居氏一族が、乃麻埜という一介の田舎文学者を処刑した、というのである。
『愛比売国風土記』の記述によれば、乃麻埜は愛比売国神野郡で生まれた文学者であり、彼は自国に伝わる文献や伝説、さらには大陸の古文書や文献等々を詳細に調べ上げて自国の縁起をまとめ上げた、という。『愛媛国縁起』は、冒頭で解るように、いわゆる神話であるから『古事記』や『日本書紀』を編纂(へんさん)した大和朝廷派の意図を著しく損なう物には違いない。
 ここに云う大和朝廷派の意図とは、天皇家を神の子孫として位置づける事で倭国における大和朝廷の覇権を正統化すると同時に、側近としての自らを尊重せしめるものである。
その倭国に、天皇家の祖先とは異なる神々がいたのでは、これはまずかろう。そこで、とりたてて問題にされたのが、前述の冒頭四行らしいのである。

 さらに『愛媛国縁起』には、大和朝廷派が公には騒ぎたくない重大問題があった。記紀で、なるべく触れる事を嫌った邪馬台国(やまたいこく)の事である。嫌った理由も明確である。彼ら(大和朝廷派)の過去に、自分達の祖先以外に高度な文化を誇った者(例えば邪馬台国等)が存在していたのでは宜しからず、という一事に尽きる。

 乃麻埜は自国の縁起を著すにあたり、参考文献の中から『媛国攻陣始末記』という書物を大きに取り上げた。これは邪馬台国衰退期に巫女文字(みこもじ=甲骨文字の類か)で書かれた物である、という。この奇書の著者の名は台与(とよ)といい、卑弥呼(ひみこ)の縁戚でもあり、二六六年には大陸の西晋へ貢献している事実が『晋書(しんしょ)』に記載されている。
後に卑弥呼の地位を継いで、邪馬台国の女王になった巫女である。記紀の編纂者らにとっては、まこと忌(い)むべき女性であった。

 こうした事から『愛媛国縁起』は大和朝廷にとって禁書であり、その著者を処刑した、という処置も一応は納得できるのだが、それにも増してすさまじいのは、《わずか四行のために処刑された》と記載した『愛比売国風土記』である。
この『風土記』という書物も、実は大和朝廷が各国に命じて、その地方の地理や文化などを書き記させた物なのである。
これはもう、時の最高権力に対する抗議などという、なまやさしいものではあるまい。もはや、一国の存亡をかけた〈豪然〉とも云っていい。しかし、大和朝廷は、ついに愛比売を討つ事をしなかった。なぜか。神野郡司の新居氏が天皇家の血を引いているから、という理由も成り立つかも知れない。が、それで片付くようにも想えない。真実を探るには記紀編纂の意図を、もっと細分化して考えねばならないであろう。こうした記紀研究については、すでに幾多の学術書が出版されており、総じて未だ揺るがぬ定説はない。

 ただ、飛鳥・奈良・平安時代を生きた人々が怨霊(おんりょう)を恐れ、勝者が敗者の霊魂(れいこん)を慰撫(いぶ)するために神として奉った史実を思う時、記紀を編纂する事で己(自分)らが駆逐した神々に贖罪(しょくざい)し、すなわち、太古よりの大霊山に守られし神野を攻めあぐねた大和朝廷の狼狽ぶりが、つい僕の脳裏に浮かんでくるのである・・。

『愛媛国縁起』の冒頭に出てくる〈伊志都知〉とは、西日本最高峰石鎚山の事である。昨今でも石鎚山は、太古より八百万の神々のおわします大霊山である、と云われており、ぞの信仰は全国にあつい。現在の地図でいえば、四国の、愛媛県西条市に位置している。
その信仰の起源を太古というのであれば、なるほど、四国そのものが古い。『古事記』の国生みの頁に、伊耶那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)が御合いしてお生みになった島々の、二番目として生まれたと記されている。
伊予ノ二名ノ島がそれであり、四国が生まれた時、すでに愛比売という国もあった。また、この一帯は、神々が遊びおわせし野ともいわれ、神野郡と命名された事実が、これは『日本書紀』に出ているではないか・・。

 さても、この大霊山を南方に仰ぎ見て、北方を瀬戸内海に接する西条の地に人々が集い暮らし始めた歴史は、考古学にいう縄文時代にまでさかのぼる事ができる。
昭和十五年に、わずかなる土器が発見されたのを契機に発掘調査が進み、縄文から弥生、そして古墳時代に至るまでの遺跡が示されたのである。歴史といえば、僕は、縄文人が原始人に近い生活を営んでいた・・、と教えられたが、近年の新たな発掘調査や研究によって縄文人は我々が信じていたよりも、はるかに高度な文化を有していた、という実証がなされた。そこには祭祀(さいし)といった宗教的要素も多分に含まれているらしい・・。
その事実を知った時、僕は、古代人達が定住する場所として、石鎚のすそ野(神野)を選んだ理由を「地理条件に恵まれていたから」と、それほど単純には片付けられないように想えたのだった。

 発見がある度に歴史が変わってゆく、と云う。
が、じつは、過去は何も変わらない。僕達が知らなかっただけの事であろう。では、いとも簡単に変わってしまう〈歴史〉とは何か。人間社会や物事などが時間経過とともに移り変わってきた過程と、それらを、ある秩序や観点に基づいてまとめ上げた記録や文書など、と辞書に出ている。

 この〈歴史〉を想う時、僕は、かつて紫式部(むらさきしきぶ)が著した『源氏物語(げんじものがたり)』の中で彼女が光源氏(ひかるげんじ)に云わしめた「六国史(りっこくし)など、国家正式の歴史書の中に真実など存在しないのではあるまいか。むしろ、物語の中にこそ真実が在るのではないか」という台詞を思い出すのである。まさに現代人の、記紀に対する諸説が定まらないことへの嘆きに通じるものであろう・・。

 その〈歴史〉を変えるのは発見である、とも云われるが、これは嘘もしくは間違いである。発見などは、ある意味においては、たんなる偶然と言っていい。とある旧家の倉を整理していて、途方もないお宝や古文書が出てくるようなものである。原始の人類が落雷による山火事などで火を手に入れた、とか、その焼け跡に半ば硬くなった土塊を見つけて土器を思いついた、と云うに変わらない。
 発見によって手にしたものを〈謙虚に熟慮しつつ考える〉時に初めて、歴史は〈変わる可能性〉を持つのである。
また、歴史は繰り返す、と云われたりもするが、いやはや、これなどは、どうであろう。

 縁起一三〇〇年余を誇る古刹(こさつ)の本堂改築工事の際、本尊(ほんぞん)が鎮座(ちんざ)まします厨子(ずし)中から偶然発見された『愛媛国縁起』を読み解く事によって我々は、日本という国の歴史を再考すると同時に、太古より絶対かつ普遍とも言われる〈神〉という存在について想像するための示唆(しさ)を見つけるかも知れない。

 この、日本における〈神〉は、いわゆる〈ゴッド=唯一神〉ではなく、実は〈神〉でもなかった。正しくは〈かみ〉という発音だけであり、本来は、非常に位の高い者の名前の後ろに付く〈様〉という敬語であった、というのである。
『古事記』や『日本書紀』などを編纂するに際して、太古からの口伝を文字におきかえる時、〈かみ〉に〈神〉という漢字を当てただけであり、これは他の単語でも同様であるらしい。
漢字など伝わって無かった時代の、その発音の響きまでを考慮しつつ訳することなど不可能なのであり、つまりは、このあたりこそが現代語訳と云わざるを得まい、とする理由でもある。

 現代人達の多くは《地球に優しい》などと、さも平然と云う・・。これこそ、物質文明の極みを狂信する人類の、どれほどに思い上がった戯言である事か・・。
 人類という生物は、この天然のうちに他の生あるもの達と同等に、この地球に恩恵を得て育まれているのである。有り難い・・有ることが難しい、にもかかわらず生かされて生きている喜びを、
「有り難うございます」
 と、生命の大河に向かいて感謝してきたのである。

 大地震や大雨などを〈天災〉と云い、その圧倒的壊滅力の前には絶望的無力を思い知りながら、自ら造り出しておいて制御しかねる〈核〉を頼る事を止めず自然破壊を止めず戦争を止めない、とは、人類、もはや痴呆となり果てたか・・。
これらの事どもをも、いわゆる天然の力を畏怖する素直な心で、謙虚に考え直さねばなるまい。この地球上で、これから先を生きてゆくのは、紛れもなく僕達の子孫なのだから・・・。

 さて、筆を持ちなおし、あらためて、この国が堕ちている、と書いてみた。
 しかし、僕は、現在を生きる若者達の〈賢さ〉を信じている。
蓮華(れんげ)は腐泥水(ふでいすい)の上に荘厳(そうごん)を漂わせつつ咲く・・、という。
 現在の日本に毒する我々大人達が、やがては死に絶えて腐泥となった時、その大地の上に生きる子孫達は〈雅芳しい日本〉という蓮華を、見事に咲かせてくれるのであろうと、想うのである。
 そうして、それは古式ゆかしい伝統美をそなえて、なお新しく瑞々しい愛に満ちあふれた生命の華であることに違いないのだ。

 願わくは、倭国(日本)として少なくとも二千年余の歴史を有する大地に産まれ育った我々の =民族としての誇り= なるものを、この物語の内に探してみたいのである。

 ただ、ここでは、神話部よりも主に『媛国攻陣始末記』に関する部分を軸に意訳を記したい、とも思う。意訳の理由はもう一つ、原本のいたみが甚(はなは)だしい頁が、けっこう多いからである。意訳にあたっては段落なども再編集し、略筆・余談・注釈などを多分に含んでいる事、先に断っておきたい。
 それらはできるだけ略筆の中に挿み、【 】でくくる事で本文とは区別し、物語の持つ雰囲気をできるだけ損なわぬようにしたつもりである。また天竺(現在のインド)の、婆羅門教(ばらもんきょう)の神々については、あえてカタカナで記す事とした・・。


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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 10:24 | Comment(0) | 連載長編小説 当ブログ用

2008年11月11日

仏教童話を古い西条の方言で・・・

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わが町 西条の古い方言で、思いついた時に書く仏教童話です。


猿の恩返し                                                       
「ほんまの物語ぞよ」
 とは云うたもんの、こりゃあ、いつ頃のできごとだったんだろぞ。
極楽寺からは、まだ三里ほども山奥へ入ったとこにのもし、よいよに腕の達者な猟師さんがおったそうなわね。

 狸が出たならドンと撃ち、猪出たならドンと撃ち、大けな熊が出たならドンと撃ちしもて、夜には狼を避けて高い木の上に寝てのもし、夜が明けて狐が見えたらドンと撃ち、鹿を見たならドンと撃ち、雉や山鳩ドンと撃ちして、仰山(ぎょうさん)に稼ぎよったんじゃと。
ちゃあんと名前も伝わっとる、亀弥(かめや)ちゅう、長生きしそうな、ええ名よの。

 ところがのもし、天は二物を与えず、じゃの云うように、この亀弥は不細工なこともこの上なしっちゅう男しじゃったけん、可哀想なことには、年頃を過ぎても嫁の来てがなかったんじゃちゅう。

 まあ、のぉの助ほどの男前でも、なかなか嫁が来てくれんらしいけんのもし、山奥に住んどる不細工な猟師には、それこそ結婚やかは難しかったんだろぞい。

 ほんでもまあ、石鎚大権現さんのおかげ様ぞいのもし、亀弥の両親は心身堅固で息災延命の御加護をいただいとりますけんの、独り暮らしのわびしさだけは、亀弥は知らずに過ごしよりまさい。
年寄りの両親は、裏の畑を耕しては野菜を作ってのもし、亀弥は山で獣を獲ってきて、かならず月にいっぺんは
「獲物供養(えものくよう)ですけん」
  ちゅての、極楽寺にお参りするんも忘れんちゅうんじゃけん、
ほりゃあ、ほりゃあ、たいそうに感心な若者ぞいのもし。

 さあ、秋も深まってきて石鎚山が色とりどりの錦絵みたいな紅葉に染まり出したある日のこと、亀弥は鉄砲かついで、もっと山奥の急斜面に分け入ったんよの。石鎚山が雪化粧なされる前に、両親と一緒に一冬を過ごせるぐらいの獲物を稼いどかないかんけんのもし、亀弥は一所懸命に狩りをしもて山や谷を超え、もっと大きな獲物がおるらしい山の奥へ奥へと登っていったんじゃちゅわね。石鎚山いうたら、あんたぁ、お大師さんが産まれた頃には、もう「鋸ノ峰(のこのみね)」ちゅうて日本全国にも有名な大霊山だったんじゃけんのもし、ほの嶮しゅうて高いことは西日本一じゃけんのもし、さぞかし亀弥もしんどかったろぞい。

 ほんでも達者の猟師じゃけんのもし、迷子になることやか無しに、急斜面でも転げ落ちもせんとのもし、獲物をさがして歩きまわったんじゃと。ところが、なんぼ腕のたつ猟師でも、さっぱり獲物が獲れんこともあるらしいわね。獲れんどころか、不思議なことにはのもし兎や狸の一匹も見あたらん日が続いたんじゃちゅわね。

 これには、なんぼ狩り達者の亀弥も焦らいね。ほれこそ必死で獲物を探っしょるうちに、細い獣道のわきでガサッちゅう音を聞き分けたんじゃちゅ。亀弥は鉄砲に弾を込めての、火縄に火ぃつけてのもし、構えた鉄砲の先で草木をかき分けもて音のした方へ、のしっ、と脚を踏み込んだことよ。
ほたらのぉえ、あんたぁ、一匹の猿が亀弥に向かってしゃがみ込んどったんじゃちゅわね。

 さすが達者の亀弥よの、慌てて撃ったりはせんとのもし、ように見たら猿の白い腹にゃあ子猿がしがみついて震えとる。
それを抱えた母猿は柔らかげな毛の生えた太股あたりから血を流しよらい・・、大怪我しとったんよの。尻餅をついたままの母猿は、まっすぐに亀弥を見上げてのもし、なんと健気にも両手を合わして目ぇつぶってからに、痛げな脚をひきずるようにしての、子猿をかばうつもりだろぞい、手ぇ合わしたまんま背中を向けたちゅう。
なんぼ獲物が欲しいっちゅうたての、これをドンと撃てる亀弥じゃなかったんよのもし。

亀弥は、すぐに火縄を揉み消しての、鉄砲やか放り捨てるようにして母猿に近づいていて、その丸まった震える背中を、そりゃ優しゅうに撫でてやりもての・・・
「まだ血が出よらい、手当てしたるけん、じいっとしとれや」
 ちゅて自分の着物の裾を引き裂いてのもし、懐から薬草を出してのもし、傷に当てて包帯したったんじゃちゅわね。

 ほてからの、自分が野宿するんとおんなじようにして子猿を抱えた母猿を高い木の上に上げてやってのもし、近くで木ノ実も一抱えばあも探してきてやって、怪我のところに手ぇ当ててのもし・・・
「この薬草はよう効くけんねや、すんぐに治らい。狼がおるけんねや、治るまでは、ここにおれよ」
 ちゅうて言い聞かしてから、もと来た道を引き返しもて獲物を追うたんじゃと。家に帰り着くまでには、ええことしたけんかしらん、大けな熊と猪を一頭づつを撃ち獲ってのもし、家族で一冬を越すには充分の収穫じゃったそうなわね。

 亀弥が帰った明けの晩かしらん、えらい冷え込んでのもし、みなで囲炉裏を囲んで雑炊なんぞすすりもての・・
「お山は初雪かねや」
 と話しよった時に、誰ぞ戸をたたくもんがおる。
亀弥が開けてやったら、この山奥の寒い晩に、そら綺麗な女子(おなご)しが可愛らしい幼子抱いて立てっとるがね。
亀弥は、たまげたけんど
「寒いけん、はよ入らんかね」
 ちゅて家んなかに入れたったちゅ。
亀弥の両親も
「はよ火にあたらんかい、雑炊も食わんかい」
 ちゅて囲炉裏に誘うてやったんじゃと。
 
 女子しは頭を下げもて板間に上がったけんどのもし・・・
「どっから来たんぞね」
「名は、なんちゅん」
 と、両親が聞いても幼子抱いて黙ったままでのもし、なんちゃ言わんのよの。正座しきらん女子しの、ちょっと乱れた着物の間から雪みたいに白い太股を見てしもた亀弥は、はっと気づいたんじゃ。
女子しの太股にゃあ、亀弥の着物の切れ端が巻き付いとったんよのもし。ここで【猿の浅知恵ちゅたら、このことか】じゃの思うた人は、いかんぞよ。亀弥は知らん顔してのもし、すやすやと安心して寝だした幼子の頭を撫でてやりもて
「疲れ果てとんだろけん、お父もお母も、ようけ聞くな。今晩は、はよ寝さしたったらえんじゃ」
 ちゅた。ほたらのもし、女子しは雑炊すすりもての、ぽろぽろと涙をこぼして泣いたっちゅう。
「山は怖かったろ。もう心配ないけんねや。ようけ食べな、乳も出んちゅけん、よう食べい」

 さあ、ほれから女子しは帰らんがね。くるくると家事いっさいをこなしてのもし、畑仕事もして、お父はんとお母はんと亀弥の肩は揉むわ腰は揉むわ脚は揉むわ腕は揉むわ、風呂に入ったら髪は洗うて梳くわ背中は流すわ、夜なべして繕いもんはするわ、亀弥の手伝いして毛皮は鞣すわ、そらもう身を粉にするほどに、いたれり尽くせりしたんじゃちゅわね。
けんど、その間にはのもし、ただの一言もしゃべらんかった。
幼子も、こりゃあ、ぐすっ、とも泣きもせんかったんじゃと・・。

 ほなにしもて、二十日ほども過ぎた頃だろか・・、亀弥は極楽寺に供養参りするっちゅうて家を出たんよの。
幼子を抱いて坂の途中まで見送った女子しに、亀弥は小声で・・、こう言うたちゅ。
「お父とお母が喜びよるけん今まで言えなんだが、恩返しのつもりやったら、もう仰山にええ夢見さしてもろたけん、だんだん(ありがとう、の方言)云わんならん。今晩、わしが戻って、みなで晩飯食うての、お父とお母が寝入ってから、こそっと山へ帰らんかい」

 さあ権現さんの前で拝み終えた時よの、亀弥の耳の奥に権現さんの声が響いたちゅわね・・。

「亀ぇ、あの母子猿は二十日前の夜中に、大怪我しとる脚を引きずって、わしを拝みに来てねや、おんし(お前)に恩返ししたいっちゅうて願掛けよった。猿が人に化けるんは寿命も尽きる苦労ぞよ、ちゅうても、かまいません・・、ちゅう。母子猿め、ついに変化(へんげ)を解かずにおったけん、ついに今日が懸命満願の命日じゃ」
「ほなな可哀想なこと・・」
「心配すな。猿としての寿命は尽きたけんど、正真正銘の人に生まれ変わらしたったわい。どうじゃい、亀よ、おんしも一生懸命して添い遂げちゃらんかや」
「へへえっ。ほんまに有り難い、有り難いですけん」

 亀弥が家に着くと、そりゃあ、可愛(かい)らしい女子しがの、
おぎゃあ、おぎゃあ、と元気に泣く幼子を抱いて、あやしもてのもし・・
「あんたぁ、お帰りなさい」
 と、そらもう、満面の笑顔で迎えたっちゅ。

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 18:09 | Comment(0) | 仏教童話 当ブログ用

内閣総理大臣ともあろう人が…失恋

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謹啓
日本国内閣総理大臣様

恐れながら…麻生総理にもの申す。踏襲(とうしゅう)という読みを「ふしゅう」と読み重ねられますとは…しかも真面目たるべき席において…失恋

決して、いわゆるアゲアシとりではありませぬ。
たとえば、どこかの小学生とか中学生とか高校生の答案であっても、こうした間違いは…ゆゆしき大問題ですぞ。あまっさえ日本国の首相としては、笑って流せることではありますまい。
ただでさえ、大阪府知事はじめ全国で、いわゆる教育問題が、最重要課題の一つとなっております昨今には、もう大変に深刻な事態とも云いきってよろしかろう…とて、それかしの想い失恋これありexclamation×2

昨日にも少し触れましたけれど、そもそも一国の首相たる人ならこそ、マンガが大好きなどと公言したり、いかにも庶民的であることを誇張する必要など、まったくなかったのであり、ひいては此度にご自身の知性の無さを自ら露呈するような大失態には、どうにも取り繕えますまいに…失恋
だって、一国の首相に対して質問する、という貴重な折りに平然と「カップラーメンの値段をご存知ですか?」などと云う新聞記者がいて、しかも、それが記事になって持て囃されるような国なんですから…失恋
ことさら、しっかりとした知性もて、この国の未来を熟考しつつ、より良い方向へと導いていだだきたいexclamation×2
以前にも書いたことなれど…日本の若者の学力を世界レベルでみたなら、知識はあるけど応用力が無いexclamation×2っていう体たらくなんでしょうexclamation&questionこのような事態に…文部科学省では、小学三年生から英語を必須科目にする…などと阿呆なことを考案されているとか…失恋

日本人は、日本語で思考し、日本語で表現するのですよexclamation×2言葉は、人と人の心をつなぐ大切な一つです揺れるハート
云うまでもなく、アメリカやイギリスはじめ英語を母国語としている国々の人々なら、しっかりとした英語で思考し、表現しているわけでして…ようは、まず、それぞれの母国語が大切だという単純明快なことではないですか…exclamation&question

言葉は、自他共に、お互いを尊重し合い、理解して、共存するためにも大切な一つです。もちろん、世の中には、心身的に何かしらの不自由や不具合にて、ご苦労なさっておられる方々も少なくないでしょう。しかし、ここに私が申し上げますのは、何らかの方法によります意志疎通も含めての…言葉です。古来、日本には「目は口ほどにものを云う」とも申しますし、英語ならボディーランゲージなる表現もありましょう。

要するに、お互い様の人間なんです。まずは、しっかりとした母国語ありきexclamation×2
ですよ。そうして、それぞれの言葉で、あるいは身体的な表現にて、何を伝えたいのか…という、中身そのものが最重要なのであります。

国際社会にて、互いに尊重し合い、理解を深めてゆくためには…それぞれの人々が、それぞれ母国の歴史と伝統文化を教養と成しては、まさに充実した内容の会話するなかで、お互いの国の在りようを学び合うことです。

たとえば、自分の家の来歴を知らず、両親の生業を知らず、ひいては自身の足元さえ知らずに、ましてや、それらを軽蔑して否定するような人を、まず信頼できますか!?そんな人と友達になりたいですか!?

いくら流暢【総理…これは、りゅうちょう、と読みます】な英語を話しますところで、その内容が希薄であったり、いわゆる知性を感じがたいものであるならば…むしろ、あえて黙して語らず…のほうがマシでしょう。

かつて、私の敬愛する高杉晋作さんが、臨戦体勢で迫りくる四ヵ国艦隊に乗り込んだ折り…まず、わざわざ選んで着付けましたのは、当時の日本にも古めかしい大鎧でありました。
まるで現在にみる五月人形のようなかっこうで、兜の代わりに烏帽子【総理…えぼし、です】を被りましてね…いざ乗り込んだなら…「そもそも日本国とは…高天原【たかまのはら、もしくは、たかまがはら、とも読みます】に…」とて祝詞(のりと)を朗々と唱え上げては、数日間を『古事記』の解釈して、ついには相手方々が「もうわかった、勘弁してくれ」とて、その長州男児たる気概だけで艦隊を撤退させたことでした。
たかが人間、さりとて人間、ついに大切なものは…やはり黒ハート黒ハートだと、私は信じています。まさに地球規模で世界の存亡が危惧されおりますなかで、どうぞ揺れるハートまことに美しい日本国の存続をも…お頼み申しますよ。
頓首再拝 菅 靖匡 再々拝

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 07:56 | Comment(0) | 歴史小説家としては…

2008年11月10日

言霊、言葉、言の葉、日本語の力…

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寝つけぬベッドの上で…ふと想っているのは、選挙のことである。昨今にはアメリカ合衆国大統領のそれがあり、たちまち日本の国会【あえて日本の国会!と限定したいのである】でも、解散時期だの総選挙だのと…まるで乱痴気騒ぎにしか思えない…そんな私の住み暮らす西条市では、ちょうど昨日から市長選挙が始まった。

私個人は、まったく政治とか選挙運動などというものに興味も関心も無いのだが、ただ…あの娘が以前には市議会議員選挙カーに乗り込んで、あのステキな笑顔を惜しみなく振りまきながら、まるで白魚でさえ恥じて逃げ隠れるほどに可憐で美しい手を振って通りすぎたことを思い出せば…また枕が涙で濡れるばかりなのである。

ともあれ…選挙運動というものの、頑なまでに進化を拒み続ける一途さは、どうであろう。いわゆるウグイス嬢【なかには、走り去る遠目にも、かつ響きわたる声そのものにさえ、間違っても…お嬢とは思えない人も少なくない】のセリフは決まりきっていて、しかも陳腐きわまりない。そうして最終日には必ず泣き落としの絶叫するのである。

ああ…それに比すまでもなく、あの娘のなんと美しく可愛らしかったことであろうか…。まだあげ初めし前髪の、林檎のもとに見えし時…いや…確か、君は夏の名残の陽光を浴びて、やや短めな髪をそよ風にまかせたまま、カバンを抱えて、僕の目の前を、すまし顔で過ぎるとキャンパスへ…いや、会社の事務所へと消えていったね…失恋

ともかく、である。
こうした選挙の風景は、国家の中枢たるべき総裁選でさえ、目くそと鼻くそが言い争うようなものであったとしか思えない私個人としては、である。いくら品格が失墜しきりとは申せ、まがりなりにも一国の宰相たる人が、マンガが好きだのと云うては、マンガの主人公の銅像除幕式に出て、税金でどら焼買って喜んだりしている場合ではあるまい…などと思いつつ、まさに日本という国そのものの滅亡すら杞憂とは云いきれなくなってきた近年を憂うばかりなのである。

祖父母が孫に、丁寧語や敬語で話し始めたのは、いつの頃からであろう…失恋
母国語を廃して、母国文化を廃することを、それこそ自らの生命を捨てる覚悟して拒否しようとしたのは、その昔にヨーロッパやアメリカなど列強諸国の植民地にされたアジアの人々であった。されど、しかし…国民が嬉々として母国語を蔑ろにしては英語を喋りたがり、伝統文化の素晴らしさなど知らないままに、異国のそれらに馴染みたがる…つまりは、率先して故郷が植民地になることを…おそらくは…たいした自覚すら無いままに切望しているとは如何に…失恋

おそらく泉下の御先祖様たちは、皆様、嘆き悲しんでいるであろう…とも想われてならないのである…失恋

少なくとも…日本に産まれ育つ人は、日本語で物事を考え、日本語で理解し、日本語で何かしら伝えるのである。昨今の異常事態は、言葉を満足に使えないゆえの心の歪みが暴発しているだけだ、とも私個人は考えている。自らの想いを整理することができない者が、他人に伝えられるわけがなく、また、逆な立場でも然りであろう…揺れるハート言葉を軽んじてはいけない!!言霊とはこじつけでなく、絶大にして計り知れない力を、必ず堅固に保っているのである揺れるハート揺れるハート

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 04:41 | Comment(0) | 眠れない夜のお伽噺