2008年11月03日

埴輪、銅鐸、石舞台・・・古代史に想うこと

ざっと二世紀から三世紀と申しますと、西暦101年から300年のうちですね。この頃の日本国内は、大変な戦乱のまっただなかだった、と大陸の史書にあるそうです。ちょうど同じ頃に生きた陳寿という方が記されました『魏書』というなかの一節で、東夷伝のうちの倭人の条項のことで、これを『魏志倭人伝』とも教えていただきました。これに・・、邪馬台国やら卑弥呼のことなどが記述されておりまして・・、世界史から観ると、ちょうどローマ帝国だとか、あるいは後漢の時代に重なるでしょうか・・。

むろん僕は原書など見たことさえありませんが・・、ともあれ、この記述が、現代日本にさまざまな空想をかき立てておりますこと、それが面白くて、しかも重要だ、と僕は考えています。

大陸から邪馬台国に至る道順は、現在地図におきかえることが困難らしく・・・、したがって邪馬台国は九州に在った、とか、いや畿内のどこかやろ、とか、もっと違うどこかだ、などと云われて定まりません。また、日本歴史研究では『古事記』あるいは『日本書紀』などと重ね合わせる考察によって、さらに複雑な議論を巻き起こしているようにも聞きおよびます。

御存知のとおり『古事記』とは、日本において現存最古の歴史書といわれおりまして、和銅五(七百十二)年に編まれたものですね。
稗田阿礼(ひえだのあれ)さんという人が暗記していた昔話を、太安万侶(おおのやすまろ)という人が、聞きながら書きとめたものだそうで、上巻(かみつまき)、中巻(なかつまき)、下巻(しもつまき)という三巻から成る、神代から第三十三代推古(すいこ)天皇の御代までの世の中を記しており、僕も、これは現代語訳ではありますが読みました。また『日本書紀』とは、やはり現存最古の、こちらは正史というものでして、養老四(七百二十)年に編まれました。神代から第四十一代持統(じとう)天皇までの、天皇や氏族の来歴やら系図などを記しておりますね・・。

さても、僕としては、ざっと以上のような、つまりは学術的な事どもは、偉くて賢い先生方にお任せすればよいものでありまして・・、とはいえ少なくとも史実あるいは定説や通説などに基づいての小説というものを書くばかりです。

ですから『魏志倭人伝』とか『古事記』や、たまには『日本書紀』などを参考文献のうちにして、それこそ好き勝手な想像を膨らませては物語りするわけですね。ですから、これらの資料を観て、僕が面白いなあ・・、と想うことは、たとえば『古事記』は、当時に御老人が口述したものを聞き採るわけですから・・、その様子の、ほのぼのとした温みなどを感じて楽しんだりします。あるいは、それまでの日本には文字というものが無かったのか?などとも想いますし・・・、ということは、日本語のもとは発音という響きのうちに育まれたものかや?などと想像するのです。まったく、お気楽っていうか、いい加減なものでしょう・・?!

ところがどっこい・・、いわゆる考古学なんぞと云われる、いかにも難しげな学術研究のうちにも、およそ太古から古代にかけては、アホな僕とそう変わらないような想像でもって、ただし、さも難解げな云いまわしで論文という厳めしいものを書いているだけのような気もしております。たとえば埴輪やら銅鐸やら、あるいは石舞台などのことを、さまざまの学術書で読みますと、なるほど、いかにも納得しちゃうぜ・・、って感じもしますけど、ようは想像でしかないんですよね。しかも、ことに古代史における一々は、おおよそ信仰とか祭礼などという・・、ある意味では現在のそれらにも曖昧なあたりに結びつけて、うにゃむにゃ、ふむふむ、うやむや、っていうことでイッチョあがり!!の大発見とか画期的新説!!みたいになっているような気も・・・している僕なんです。
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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 04:26 | Comment(1) | 歴史小説家としては…