2008年11月12日

弥生時代、邪馬台国、卑弥呼、そうして僕ら日本人すべての御先祖様方に捧ぐ・・・

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愛媛国縁起

まえがき
 かつては小柄な肢体をたおやかに海に浮かべた、それは美しい女性(にょしょう)であったらしい。
四季のおりおり、天然の化粧(けわい)を優雅にして華麗自在(かれいじざい)に着飾る姿は、天上におわします神々にも深く愛でられ、ゆえに精鋭無敵(せいえいむてき)なる数万騎天兵(すまんぎてんぺい)にて守護されていた・・、ともいう。

 しかし現在、この美しかったはずの日本は〈病からげ〉にて、まさに、今はの際にある。もはや、かつての美は風前の灯火(ともしび)であり、その痛ましさは同情の域を越えてしまい、病巣の醜態と腐臭は、ついに海外の嘲笑をも浴びるにいたった。
 いつ発病したのか、どこがどう悪いのか、まず何をどう手術すればよいのかまでを、この女性(にほん)に育まれている人々の大多数が知っていて、しかも執刀の主権を掌握しているにもかかわらず平然と棄権し、さらに自嘲の笑みさえ浮かべつつ日々に惰眠(だみん)をむさぼっている、とは、いったい、どうした事なのであろう。

「この大地こそが、すなわち吾らの母様ぞ。この、日出(ひいづ)る国の子らぞ、吾らは」
 現在にいう弥生(やよい)の世を、電光石火のごとくに生命煌(きら)めかせて生きた都祢那賀(つねなが)という若者が、愛もて、かつ全霊を込めて凛々(りんりん)と叫び上げたものである・・、と、現在に伝わる言ノ葉である。
日本国の土台とも云っていい農耕が本格的に始まったという時代に、天然の恵みをもって一切生命を育んでくれる大地を〈母〉と称した若者の、この一言に惹かれ、ただそれだけで、僕にとっては難解極まる、この古く長い物語の現代語訳を決心したものである。

 さても日本史にも聞き慣れない〈都祢那賀〉なる若者を、古の先人は《邪馬台(やまたい)の貴種(きしゅ)にて美形なり。内心に気魂充溢(きこんじゅういつ)して奔放不羈【ほんぽうふき=才識すぐれ、かつ常規で律しきれない。】の性(さが)を保ちて生まれ、軍事をよくし、酒と女性を、こよな【格別に】好む》と書き残している。

《大海に、大白鯨神(だいはくげいしん)真坐阿(まざあ)おわしまし、深海より地を圧し上げて国土を造りたもう。天空より八百万の神々、来臨影向(らいりんようごう)なしたまいて伊志都知(いしづち)を生み、真護(まご)と納南(なな)なる二柱(ふたはしら)の神が御合いして媛(ひめ)を産みたまえり。
森羅万象(しんらばんしょう)の主神々(ぬしかみがみ)、これをことの外に喜びて、媛を愛でつつ詔(の)りたまうに・・・
”我ら永劫(えいごう)、この伊志都知にて媛を守らしめん”
”然善けむ”
 と・・。》
 これが、天平三年(七三一年)に書かれた『愛媛国縁起(えひめのくにえんぎ)』という物語の冒頭である。
これから記そうとするのは、この『愛媛国縁起』の意訳なのである。

 さあ、いよいよ書き進める前にとて、多少の余話を挿んでおきたい。この物語が記された時代背景などである。
 まずは、この、わずか四行のために著者は処刑された・・、と『愛比売国風土記(えひめのくにふどき)』の神野郡(かみのごおり)という頁に出ている。
著者の名は乃麻埜(のおの)といい、罪名は「不敬」となっている。はて、何に対する不敬か。もちろん大和朝廷に対するそれであろう。神野郡は大化改新時に置かれ、孝徳天皇の一族が郡司(こおりのつかさ)に任ぜられて子孫が世襲し、これが新居(にい)氏の祖であるが、その後も新居氏は様々の姓に分派しつつ、神野の地で繁栄している、という。つまり土着民にとって、神野郡を治め始めた一族は、いわゆる〈余所者=よそもの〉であり〈余所者〉は常に、ただひたすらに勤皇の一族、であった。

 それでも、大化改新(たいかのかいしん)から百年近く経った聖武天皇の治世には、ずいぶんと在所になじんできたであろう。とはいえ、まだ〈余所者〉の匂いが濃厚であり『愛比売国風土記』には《過ぐる白雉九年、倭国(わこく)の大事(おおこと=白村江の戦)に勤皇して後、いまだ些かも変わらず》と、ある。その新居氏一族が、乃麻埜という一介の田舎文学者を処刑した、というのである。
『愛比売国風土記』の記述によれば、乃麻埜は愛比売国神野郡で生まれた文学者であり、彼は自国に伝わる文献や伝説、さらには大陸の古文書や文献等々を詳細に調べ上げて自国の縁起をまとめ上げた、という。『愛媛国縁起』は、冒頭で解るように、いわゆる神話であるから『古事記』や『日本書紀』を編纂(へんさん)した大和朝廷派の意図を著しく損なう物には違いない。
 ここに云う大和朝廷派の意図とは、天皇家を神の子孫として位置づける事で倭国における大和朝廷の覇権を正統化すると同時に、側近としての自らを尊重せしめるものである。
その倭国に、天皇家の祖先とは異なる神々がいたのでは、これはまずかろう。そこで、とりたてて問題にされたのが、前述の冒頭四行らしいのである。

 さらに『愛媛国縁起』には、大和朝廷派が公には騒ぎたくない重大問題があった。記紀で、なるべく触れる事を嫌った邪馬台国(やまたいこく)の事である。嫌った理由も明確である。彼ら(大和朝廷派)の過去に、自分達の祖先以外に高度な文化を誇った者(例えば邪馬台国等)が存在していたのでは宜しからず、という一事に尽きる。

 乃麻埜は自国の縁起を著すにあたり、参考文献の中から『媛国攻陣始末記』という書物を大きに取り上げた。これは邪馬台国衰退期に巫女文字(みこもじ=甲骨文字の類か)で書かれた物である、という。この奇書の著者の名は台与(とよ)といい、卑弥呼(ひみこ)の縁戚でもあり、二六六年には大陸の西晋へ貢献している事実が『晋書(しんしょ)』に記載されている。
後に卑弥呼の地位を継いで、邪馬台国の女王になった巫女である。記紀の編纂者らにとっては、まこと忌(い)むべき女性であった。

 こうした事から『愛媛国縁起』は大和朝廷にとって禁書であり、その著者を処刑した、という処置も一応は納得できるのだが、それにも増してすさまじいのは、《わずか四行のために処刑された》と記載した『愛比売国風土記』である。
この『風土記』という書物も、実は大和朝廷が各国に命じて、その地方の地理や文化などを書き記させた物なのである。
これはもう、時の最高権力に対する抗議などという、なまやさしいものではあるまい。もはや、一国の存亡をかけた〈豪然〉とも云っていい。しかし、大和朝廷は、ついに愛比売を討つ事をしなかった。なぜか。神野郡司の新居氏が天皇家の血を引いているから、という理由も成り立つかも知れない。が、それで片付くようにも想えない。真実を探るには記紀編纂の意図を、もっと細分化して考えねばならないであろう。こうした記紀研究については、すでに幾多の学術書が出版されており、総じて未だ揺るがぬ定説はない。

 ただ、飛鳥・奈良・平安時代を生きた人々が怨霊(おんりょう)を恐れ、勝者が敗者の霊魂(れいこん)を慰撫(いぶ)するために神として奉った史実を思う時、記紀を編纂する事で己(自分)らが駆逐した神々に贖罪(しょくざい)し、すなわち、太古よりの大霊山に守られし神野を攻めあぐねた大和朝廷の狼狽ぶりが、つい僕の脳裏に浮かんでくるのである・・。

『愛媛国縁起』の冒頭に出てくる〈伊志都知〉とは、西日本最高峰石鎚山の事である。昨今でも石鎚山は、太古より八百万の神々のおわします大霊山である、と云われており、ぞの信仰は全国にあつい。現在の地図でいえば、四国の、愛媛県西条市に位置している。
その信仰の起源を太古というのであれば、なるほど、四国そのものが古い。『古事記』の国生みの頁に、伊耶那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)が御合いしてお生みになった島々の、二番目として生まれたと記されている。
伊予ノ二名ノ島がそれであり、四国が生まれた時、すでに愛比売という国もあった。また、この一帯は、神々が遊びおわせし野ともいわれ、神野郡と命名された事実が、これは『日本書紀』に出ているではないか・・。

 さても、この大霊山を南方に仰ぎ見て、北方を瀬戸内海に接する西条の地に人々が集い暮らし始めた歴史は、考古学にいう縄文時代にまでさかのぼる事ができる。
昭和十五年に、わずかなる土器が発見されたのを契機に発掘調査が進み、縄文から弥生、そして古墳時代に至るまでの遺跡が示されたのである。歴史といえば、僕は、縄文人が原始人に近い生活を営んでいた・・、と教えられたが、近年の新たな発掘調査や研究によって縄文人は我々が信じていたよりも、はるかに高度な文化を有していた、という実証がなされた。そこには祭祀(さいし)といった宗教的要素も多分に含まれているらしい・・。
その事実を知った時、僕は、古代人達が定住する場所として、石鎚のすそ野(神野)を選んだ理由を「地理条件に恵まれていたから」と、それほど単純には片付けられないように想えたのだった。

 発見がある度に歴史が変わってゆく、と云う。
が、じつは、過去は何も変わらない。僕達が知らなかっただけの事であろう。では、いとも簡単に変わってしまう〈歴史〉とは何か。人間社会や物事などが時間経過とともに移り変わってきた過程と、それらを、ある秩序や観点に基づいてまとめ上げた記録や文書など、と辞書に出ている。

 この〈歴史〉を想う時、僕は、かつて紫式部(むらさきしきぶ)が著した『源氏物語(げんじものがたり)』の中で彼女が光源氏(ひかるげんじ)に云わしめた「六国史(りっこくし)など、国家正式の歴史書の中に真実など存在しないのではあるまいか。むしろ、物語の中にこそ真実が在るのではないか」という台詞を思い出すのである。まさに現代人の、記紀に対する諸説が定まらないことへの嘆きに通じるものであろう・・。

 その〈歴史〉を変えるのは発見である、とも云われるが、これは嘘もしくは間違いである。発見などは、ある意味においては、たんなる偶然と言っていい。とある旧家の倉を整理していて、途方もないお宝や古文書が出てくるようなものである。原始の人類が落雷による山火事などで火を手に入れた、とか、その焼け跡に半ば硬くなった土塊を見つけて土器を思いついた、と云うに変わらない。
 発見によって手にしたものを〈謙虚に熟慮しつつ考える〉時に初めて、歴史は〈変わる可能性〉を持つのである。
また、歴史は繰り返す、と云われたりもするが、いやはや、これなどは、どうであろう。

 縁起一三〇〇年余を誇る古刹(こさつ)の本堂改築工事の際、本尊(ほんぞん)が鎮座(ちんざ)まします厨子(ずし)中から偶然発見された『愛媛国縁起』を読み解く事によって我々は、日本という国の歴史を再考すると同時に、太古より絶対かつ普遍とも言われる〈神〉という存在について想像するための示唆(しさ)を見つけるかも知れない。

 この、日本における〈神〉は、いわゆる〈ゴッド=唯一神〉ではなく、実は〈神〉でもなかった。正しくは〈かみ〉という発音だけであり、本来は、非常に位の高い者の名前の後ろに付く〈様〉という敬語であった、というのである。
『古事記』や『日本書紀』などを編纂するに際して、太古からの口伝を文字におきかえる時、〈かみ〉に〈神〉という漢字を当てただけであり、これは他の単語でも同様であるらしい。
漢字など伝わって無かった時代の、その発音の響きまでを考慮しつつ訳することなど不可能なのであり、つまりは、このあたりこそが現代語訳と云わざるを得まい、とする理由でもある。

 現代人達の多くは《地球に優しい》などと、さも平然と云う・・。これこそ、物質文明の極みを狂信する人類の、どれほどに思い上がった戯言である事か・・。
 人類という生物は、この天然のうちに他の生あるもの達と同等に、この地球に恩恵を得て育まれているのである。有り難い・・有ることが難しい、にもかかわらず生かされて生きている喜びを、
「有り難うございます」
 と、生命の大河に向かいて感謝してきたのである。

 大地震や大雨などを〈天災〉と云い、その圧倒的壊滅力の前には絶望的無力を思い知りながら、自ら造り出しておいて制御しかねる〈核〉を頼る事を止めず自然破壊を止めず戦争を止めない、とは、人類、もはや痴呆となり果てたか・・。
これらの事どもをも、いわゆる天然の力を畏怖する素直な心で、謙虚に考え直さねばなるまい。この地球上で、これから先を生きてゆくのは、紛れもなく僕達の子孫なのだから・・・。

 さて、筆を持ちなおし、あらためて、この国が堕ちている、と書いてみた。
 しかし、僕は、現在を生きる若者達の〈賢さ〉を信じている。
蓮華(れんげ)は腐泥水(ふでいすい)の上に荘厳(そうごん)を漂わせつつ咲く・・、という。
 現在の日本に毒する我々大人達が、やがては死に絶えて腐泥となった時、その大地の上に生きる子孫達は〈雅芳しい日本〉という蓮華を、見事に咲かせてくれるのであろうと、想うのである。
 そうして、それは古式ゆかしい伝統美をそなえて、なお新しく瑞々しい愛に満ちあふれた生命の華であることに違いないのだ。

 願わくは、倭国(日本)として少なくとも二千年余の歴史を有する大地に産まれ育った我々の =民族としての誇り= なるものを、この物語の内に探してみたいのである。

 ただ、ここでは、神話部よりも主に『媛国攻陣始末記』に関する部分を軸に意訳を記したい、とも思う。意訳の理由はもう一つ、原本のいたみが甚(はなは)だしい頁が、けっこう多いからである。意訳にあたっては段落なども再編集し、略筆・余談・注釈などを多分に含んでいる事、先に断っておきたい。
 それらはできるだけ略筆の中に挿み、【 】でくくる事で本文とは区別し、物語の持つ雰囲気をできるだけ損なわぬようにしたつもりである。また天竺(現在のインド)の、婆羅門教(ばらもんきょう)の神々については、あえてカタカナで記す事とした・・。


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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 10:24 | Comment(0) | 連載長編小説 当ブログ用