2008年11月13日

歴史小説おすすめランキング

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 21:33 | Comment(0) | 眠れない夜のお伽噺

愛媛国縁起の始まり!はじまりぃ!!

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愛媛国縁起

『愛媛国縁起』
【乃麻埜(のおの)『媛国攻陣始末記』を物語りて・・・】

序章

 須磨ノ浜(すまのはま)から船をこぎ入れ、葦原(あしはら)の湿地帯を左右に見つつ川を遡(さかのぼ)り、菊水山(きくすいやま)のすそ野まで上がると、鵯(ひよどり)という在所である。
鵯はきぶい崖を背にした小さな村で、農耕や漁業を営む人々が、のんびりと暮らしていたが、都祢那賀(つねなが)が、邪馬台国軍を率いて近隣の小国を攻め滅ぼした後に陣屋を構えて、周囲に兵馬を配したため、畿内から大勢の商人達が移り住むようになった。

 都祢那賀は鵯に居座り、須磨港に水軍を集めて淡道島を攻め落とし、周囲の海域を縄張りとしていた海賊どもを制圧、そのため貿易に訪れる異国人が急増し、須磨周辺は急速に開けた。
 湿地帯が徐々に埋め立てられ、商人達が露店を広げたものだから、ありとあらゆる物資が集まり、いわば国際的な市場が出来上がったのである。
『媛国攻陣始末記(ひめのくにこうじんしまつき)』という古文献には《鵯村とは、もともと四十八戸であったが、都祢那賀が陣屋を構えて半年後には三百二十三戸、海上を制圧した後には千余戸》とある。《これらは、すべて一年半以内の出来事である》ともいう。

『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に、伊都国(いとのくに)千余戸とか対海国(つまのくに)千余戸云々と記されているのは、この当時から約半世紀余前の場景である。
自然的人口増加を考慮したとしても、ひなびた田舎の里が二年足らずでちょっとした小国に発展したような騒ぎであった事は間違いない。
また『魏志倭人伝』によると《邪馬台国は三十余の小国が連合し、卑弥呼を女王として成立した国である》となっている。

「然ながら、それは大陸から観た話だ」
 と、都祢那賀は、断じて云うのである。
「倭国など未だ存在せぬ」とも云う。
「大陸を向こうにまわし、なお堂々たる一国を、たった今より、俺が創り上げるのぞ」
 五年前、明日香野(あすかの)の本陣に居並ぶ幕僚(ばくりょう)に対して、この若者が宣言した言ノ葉である。
この都祢那賀に云わせれば、倭国どころか、自身が産まれ育った邪馬台なる国さえもが無い。それもまた、大陸側が勝手に付けた名称に過ぎぬ、と云うのである。

なるほど、倭国(わこく、もしくは、わのくに)、というのは当時の大陸で用いられていた日本への呼称であるし、何よりの証しとて、倭、という文字には《小さい》という意が含まれて在るではないか。古代日本は、けっして大陸の属国などではなかったのであり、自らを「倭国」などとへりくだる道理など、これは無い。
自らを倭人などと、さも自嘲する謂われも、また無いのである。

 この当時の倭国における〈国〉というものの概念は、現在とはまるで異なるであろう。現在の小さな郡や郷や村ほどの広さの土地に、王や女王といった首長(しゅちょう)を中心に群れた集落を国といい、さほど明確な国境線を保たない。
何しろ小規模であり、隣接する事も稀で、たとえ隣接しても、争って奪い合わねばならぬほどではなく、むしろ協力し合ったほうが快適に暮らせた時代であった。

 ところが卑弥呼が〈親魏倭王〉の金印を手にする、わずか八十年余前頃から、にわかに世が騒がしくなってきたのである。
大陸との交易が頻繁(ひんぱん)になり、充実してゆくにつれ、その利権が膨らんでゆく・・、と想えばいい。
交易の規模が拡大すれば、その分輸出する物資が必要になる。
一国の領土が広いほど賄える物資も多くなるのが道理であろう。
列島に点在割拠する各国とも、より肥沃で広大な地を求めて動き始めたのである。大陸では後漢と呼ばれている時代で『後漢書(ごかんしょ)』には《倭国大乱》とある。
ともあれ、このあたりの事情は、追い追いに述べてゆきたい。

 都祢那賀は、邪馬台国の軍事総司令である嘉汰耶(かたや)という男の直孫であり、その身は、畿内以西制圧担当軍の大将軍である。この時、齢十九というから前述の言葉を吐いたのは、弱冠十四の頃であろう。
もっとも、当時としては歴とした大人ではある。

 しかも、この若者は血筋による成り上がりでもない。
初陣は、八歳の頃とも十歳であったともいい、側近として従軍した将帥(しょうすい)から「軍神におわす」と絶賛されたほどの軍才を持っている、と吾(あ)【乃麻埜のこと】の手元にある奇古書は云うのである。
 また、卑弥呼の孫娘である那薙(なち)姫とは許嫁の仲であったらしい。これは、すなわち事実上、邪馬台国の後継者と見ていいであろう。無論、当時の周囲も、それを認めている。

「もはや、世も末か。近頃の若衆は、礼節をわきまえぬわい」
 嘉汰耶などは、年寄衆(としよりしゅう)を前に、盃を傾けつつ嘆息しているが、これには多分に喜悦が含まれているのだった。
が、しかし、都祢那賀の初陣以前には本人を前にして
「男に美貌など無用じゃ。敵のみならず味方の兵にも侮られるわ」 
と本気で憂いていた、ともいうのである。
この若者は「都祢那賀様ほどに生まれたかった」と、都に住み暮らす女性達がつい溜息をもらすほどの美形だったらしい。

 幼少の頃から、いわゆる猿松【さるまつ=腕白】であったが、もとが名門の家柄であるためか周囲に叱る者がおらず、皆が・・
「なにせ陣屋敷の若子様だから」
 と遠慮した、ともいう。
初陣後には酒と女の味を覚え、那薙と云い交わすまでは手がつけられぬ放蕩ぶりであった。この若者の実父は、嘉汰耶の実子である汰雅志嘉(たがしか)といい、母の名を撫子(なでしこ)という。
「いつまでも、子供みたいでは困ります」
 撫子は、毎夜のように小言をいって嘆息したが
「男はそれでいいのだ」
 と、むしろ汰雅志嘉は喜んでいるかのように見受けられる。

 ある日の事、撫子は意を決して息子を呼びつけ、説教しようとした。
「都祢那賀、そなたは、なぜ、そんなにも行儀が悪いのでしょうね」
「これは母上。なぜ、と問われましても困りましたな」
「そなたが、周囲の者達から何と云われているか、母は知っております」
「ほう、やつらは俺を、何と呼ばわっておるのでしょうや」
「戦にはお強うおわすが、暴れ者で恐ろしい若子(わこ)様じゃと申しておるそうですよ。しかも女など引き連れて酒など浴びるほどに呑んで、気にさわるような事があれば喧嘩などして、そなたの顔色をうかがうのは大変だ・・、と申しておるそうです」
「困ったな」
 都祢那賀は、その癖で、ちょっと小首を傾げて考えこむ仕草をした。
「何がです」
 撫子は、つい、つられて・・心配そうに聞いた。
「母上が」
 と、彼は母の顔を覗き込み
「えっ」
 と、撫子は驚いた。
「こんなにお美しいのに、小言ばかり申されておりますと・・小皺が増えまするぞ」
「つっ・・都祢那賀」
「きゃっ」
 都祢那賀は甲高い声で嬉しそうに一声笑い、上機嫌で、ぱん、と手を打った。
「それでは母上・・本日の説教は、これにてご勘弁を」
「おっお待ちなされ、都祢那賀、まだ、母の話は終わっておりませぬ」
「酒場で女達が待っておりますれば・・、これにて失敬」
「都祢那賀」
 母の叫びを置き去りに都祢那賀はさっそうと出てゆき、撫子は深い吐息をついた。

「まあ、よいではないか」
「戦に強いからと、あなたは都祢那賀に甘過ぎます」
「やれやれ、今度は、わしに飛び火したか」
「あなた」
「そんなに心配せずとも、そのうち収まるわ」
「どうして分かります」
「わしが、そうだったからな。そちに出逢うまでは、あれと同様だったのよ」
「・・まあ」
「那薙姫様との許嫁がととのったならば、あれも大人しゅうなるわな」
「本当に、そうでございましょうか」
「案ずるな。男とは、そうしたものじゃ」

 当時、傾(かぶ)く、という表現は、まだ無い。が、もし在れば都祢那賀は「傾き者」と呼ばれたかも知れない。
まず服装が派手、と云うより変わっている。衣料は、麻が一般的で男はゆったりとした筒袖(つつそで)に、下は裾を絞った筒袴(つつばかま)をはいて、草鞋(わらじ)をつっかけるのが、いわゆる普段着であった。
【例えば現在、僧侶が着る作務衣に似ている・・。】
女は耳や首周りに身分相応の装飾品を付け、裾が足首を隠すほどの長い筒袖(丸首で、頭から被るようにして着る)を装い、腰紐を巻いている。男女ともに、下帯などは着けていない。
髪型といえば男は総髪で髷(まげ)は短く、女は腰の辺りまで伸ばして、撫で付けずにゆったりと結っていた。

 しかし、都祢那賀は髪を結えぬくらい短く切り、衣は藍色や淡い赤などに彩色した物を用いる。しかも、これが兵士達の間で流行った。
普段、軍装を解いていても兵士だと分かるようになった。
「長い髪は、戦のじゃまだ」
 と、都祢那賀は云っているが、彩色についての理由は述べない。
ただ、兵士達がこぞって着始めた頃には、女物を着て出歩いたりもしているあたり・・、嫌なのであろう。人と同じ事が、である。
「なぜ、女物などお召しになるのです」
 と、那薙が聞いた事もある。
 すると、この若者はわずかに口許を弛めて
「しやすかろう」
 と応えた。大和語(この当時なら倭国語とでもいうべきか)では、主語を省く表現が珍しくはない。都祢那賀の場合は、それも語り癖の一つのようで、特に軍令など発する時などには、しばしば聞かれた。
軍令などは短言端的を是とす、と、常に訓令している。
那薙に対して答えた主語は、狎褻(まぐわい)であろう。
ともかく諸事、破天荒(はてんこう)な若者であったようである。


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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 08:43 | Comment(0) | 連載長編小説 当ブログ用