2008年11月14日

愛媛国縁起(三回目だぜ!)ジャパニーズ・セクシャル・ダイナマイトスペシャル!

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愛媛国縁起


覇津華雅(はつかが)
     一
「およそ、この世は泡沫(うたかた)にも似て、まことなるかな浮世ともいう。浮世に棲み暮らす人の一生などは縁という糸で織りなす一反の、せめて願わくは錦のごときものでありたい」
 いにしえの、生命震える初陣にて都祢那賀(つねなが)が吐いた言霊(ことだま)の煌めきは、現在もその輝きを失わずに在るようで、吾(あ)【乃麻埜=のおの】の気魂に深く染み入るものであった。

 そも吾が『愛媛国縁起』を起草するにあたり、この『媛国攻陣始末記』なる奇古書に出会えた事も、伊志都知(いしづち)という太古よりの霊山が結んでくれた、摩訶不思議なる縁(えにし)というべきであろうか。
吾は、霊峰伊志都知の山懐(やまふところ)に草木を結いて庵(いおり)となし、山菜と炭を商いて口を糊(のり)しながら物を書いている。
同じ神野郡でありながら山里と下里で交流もままならぬ険路であるというに、他国人などは〈霊山詣=れいざんもうで〉と云うて登ってくる者が多い。
 そんな中には国中を渡り歩く行商人などもいて、ある年の夏、泊接待の御礼に、と置いていってくれた古草紙(ふるそうし)の束にまぎれていた。なかなかに分厚いそれを、手に取ってめくって見れば汚れてあちこち虫食いの雑紙(ぞうし)の表裏にびっしりと書き付けられているのは、およそ文字とも思えぬ。されど子供か狂人の洒落書にも見えず、捨てずにとっておいた。

 これが何か、と解る日は、思案の外に早くきたものである。
教えてくれたのは、諸国を旅してまわる出雲の、歩き巫女(みこ)であった。伊予ノ二名ノ島に入ったからには霊山参りを思い立った、という、その歩き巫女が吾の棲む山里にあがってきたのは晩秋の、満山紅葉に彩られて晴れた日の夕暮れ頃であった。

「軒の下でもかまいませぬゆえ、せめて夕餉(ゆうげ)と、願わくは一夜の露しのぎを,、お許し賜(たも)ろ」
 見やれば十七八の、巫女結いの黒髪や衣などは旅塵(りょじん)にうす汚れてはいる。が、涼しげな眼が気に入った。何より、山の夜は冷える。中に入れてやり、まずは山芋粥(やまいもがゆ)で身体を温めて、近在の寺から下された酒【神仏に御供した後の、いわゆる〈お下がり〉】を食らいながら旅の四方山話(よもやまばなし)に聴き入っているうち、歩き巫女の生業でもある伽(とぎ)をつとめてもらう事になった。

 肌を合わせれば自然と情もわく、というもので、寝床で吾の夢を語ったところが、この巫女めは空相槌(からあいづち)ばかりでうつ伏せたまま、ついには、枕元の草紙に手をのばして読み始めたものである。
巫女の美しさが小憎らしくもあり、今一度は犬の狎褻(まぐわい)よろしく、尻から責めてやろうか、と思うた途端に
「あっ」
 と声を上げ身をはね起こして驚いたのには、吾こそが驚いた。
「これを、どうして手に入れた」
 と問われて、まず事情を語り、読めるのかえ、と問い返せば
「少しは読めまする。これは巫女文字ともゆうて、神代の昔より伝わるものです」
「ぜひとも読んでくれや」
「妾(わらわ)はいまだ無学にて、この古文字のすべてを読みくだす事は叶いませぬ。されど故郷の長老ならば、おそらくは・・」
「何を綴っておるものか、だけでも教えてくれや」
 巫女は暫く黙って一穂の灯明の下に寄り、熱心に眼を凝らしていたが、やがて顔を上げて云う事には・・
「かつて邪馬台(やまたい)なる国が在り、媛なる国を攻めたらしゅうござりまするなあ。邪馬台国は畿内三十余国を治め、媛(ひめ)は何と、この伊予ノ二名ノ島に在ったらしい」
「ええっ。この島で〈ひめ〉と名付くは二ヶ国、ここ愛比売(えひめ)と大宜都比売【おおげつひめ=現在の徳島県】とある。どちらじゃ」
「伊志都知の名が出ているからには愛比売でしょう」
 それはでかした、頼む、全部を読んでくれ、この通りじゃ、と裸身のまま平伏懇願(へいふくこんがん)したが
「古文字は難しゅうて無理です。ぜひにも読み下したいなら出雲へ参られませ」
 とぞ云う。
「吾などが行って、しかも初参りじゃに、その長老には目通り叶うものかや」
「仏教が流行って久しい。出雲の大社詣(たいしゃもうで)は寂れるばかりにて、巫女どもは妾のように行脚(あんぎゃ)してまわらねばならぬ有様じゃ。寄進(きしん)をはずめば、たとえ乞食(こつじき)でも賓客(ひんきゃく)の扱いでしょう」
 かくして吾は決心して山を降り、瀬戸内海を渡って出雲へ詣でたのであった・・・。

 はてさて、物語の大路をはずれて話の辻道を行き過ぎたか。
ただ、この長い物語の合間には時折、こうして辻道に迷う事をも、読者諸氏には許されたいが如何なものかな・・。
では、そろりとふたたび、古物語の大路へと戻ろう。

    二
 暫し、時をさかのぼらねばならない。
都祢那賀(つねなが)の産まれた頃に、である。
《都祢那賀の産まれし時、天もまた初陽にて地をあまねく照らし、潮満ちて、これを祝う。山河に新緑の風薫り、花咲き乱れて大地に溢るるなり》とある。都祢那賀は、ある春の日の早朝、満潮と御来光【陽の出】の中に生まれたらしい。
が、彼の誕生を天と地が祝った、というくだりは、後に都祢那賀が常勝大将と讃えられてから書かれたものであろう。
 当時は一夫多妻が慣わしであり、汰雅志嘉には撫子の他に八人の妻達と、すでに七男三女の子があったし、都祢那賀の幼少時には、祖父である嘉汰耶でさえ疎み嘆いたほどである。
彼の出生、その高貴な身分の他には決して恵まれたものではなかった、と察してよかろう。

 ただし、確かに一大事ではあった。
夜半、撫子(なでしこ)が産気づいて産屋【うぶや=母屋=おもや、ともいう】に移されたのは、やや欠けた月が天空の高みを極めた後、地に向かって傾き始めた頃である。都中が深い眠りに包まれていた。
寝静まっていた嘉汰耶(かたや)の陣屋敷だけが、にわかにあわただしくなり、急使を命ぜられた兵士が淡い月明かりを浴びつつ、宵口(よいのくち)の通雨(とおりあめ)に湿った大路を馬で駆け抜け、卑弥呼(ひみこ)の暮らす水上宮へと入り、さほど間をおかず宮中から駕篭馬車(かごばしゃ)を先導して同じ大路を引き返す時には、馬蹄(ばてい)と車輪の響きに夢を急がされた大路沿いの都人達が
「何事ぞ」
 などと、ひそめきつつ道端に這い出し、それを見送った、とある。その、軋む駕篭内で揺れに身を任せているのは巫女が三名。
内の一人が女王卑弥呼であった、という件が、それすなわち一大事であると、確かに物語っている。

 当時、およそ性に関する事どもはすべて神事である。ことに出産は、まさに神秘の力によって新たなる生命を現世に導くわけで、その最たるものと云っていいであろう。巫女とは、助産婦でもあった。
ただ、いくら性事とはいえ、女王自らの介護とは、すさまじい。

 現在、巫女は、神社に行けば見かけられよう。初詣(はつもうで)なら、白衣に赤袴のかっこうで御守などを売る早乙女(さおとめ)の事である。
一見、古式にのっとっているかのようだが実はまったく違う。
 ここで、古代の巫女なる者について述べておかねばなるまい。
もとは〈巫=ふ〉と読む。
この〈巫〉とは男女を問わず、およそ、神事のすべてを司る者、を指して使われた文字である。ところが、いつの頃からか〈巫〉は女性に対してのみ用いられるようになり、ついに巫女となった。
男性の〈巫〉は覡という文字で区別されている。

 さて、なぜ女性に限られ巫女なのか。
一言でいえば、生身に生命の神秘を内包している、からであろう。新たなる生命を胎内にて育み、やがて現世に産み出す力は古代人にとって神業にも等しく、まさしく絶大であったはずである。
古来、豊かな生命を育む天然(大海や大地)を〈母なる〉と形容し、女性と考え表す事からも、それは容易に察せられる。

 また、女性の〈生理〉が、天空に浮かぶ月と密接な関係を保っている事をも、すでに古代人達は知っていた。
 また、これらの事実は不可思議なるかな、人種や国などの違いを越えて共通する概念なのである。天然崇拝、自然信仰、精霊信仰などが絶対であったろう古代世界で、神々と交わりながら神事を行う時に、すでに天然(生命の源)と一体化している女性の方が霊力が強い、と考えられるのは無理もなかろうと察する。
 加えて重要なのは、その性事である。古代世界は現代世界ほどに、性事そのものが堕落してはいなかった。
それこそが、すなわち神事の一つだったのである。

 およそ古代の神事とは、祈祷や占象だけにとどまらない。
天文学、医学、生物学、統計学、数学等々を含み、それぞれが実に精密に組み立てられていた。つまり巫女とは、現代にいう科学者でもあったのである。

【邪馬台国滅亡から四百年ほど後に記された、この『愛媛国縁起』の中でも、乃麻埜は
「不老不死でもあったかのような卑弥呼とは何者ぞや」
 と自問し、あるいは一女性としての個人名ではなく、太古より倭国に存続した巨大な巫女集団の組織名ではなかったか・・とも推察している。】

 そんな中で〈性事〉も巫女の司る重要な項目であった。
性交する事で本能を解き放ち、己の持つ霊力を最大極限に高めつつ、ついに願望成就の呪法をほどこすのである。
 いやはや、つい、余談が過ぎたか。ともあれ、古代の巫女達は、現代における科学者であり、医者であり、もちろん、神に祈りを捧げて民衆と神々を仲立ちする存在でもあったのである・・。
 ともあれ、ここらで話を戻したい。卑弥呼が、嘉汰耶屋敷に到着し母屋に入って後の、吉報を待ちわびる住屋内にての情景に、である。

「男児ならば、よき傅人を決めねばなりませぬ、父上には誰ぞ案中の者がおりまするか」
 汰雅志嘉(たがしか)は、さも興なげに寝覚ましの酒などを口に運びつつ、嘉汰耶に問うてみた。
「うむ、多少の難はあるがな」
 と呟き、嘉汰耶は胡座(あぐら)をかい込みて、太い丸太の屋台骨に 背をあずけ、開けばぎょろりと鋭い眼を、いまは半ばとじて微動だにしない。戦場にて半生を費やした老人の顔には、深い皺が幾重にも刻まれ、皮膚は陽に灼けて磨き上げた鉄のごとくに黒光りしており、長く伸びた頭髪や顎髭は、見事な白髪であった。

 待ち遠しくもある時が過ぎゆき、はたして、夜明けとともに生まれたのは男児であった。
「覇津華雅を呼べ」
 嘉汰耶は静かな口調で、高床(たかゆか)の廊下に侍っていた近衛の兵士に命じている。
「・・・覇津華雅とや」
 汰雅志嘉は露骨(ろこつ)に眉をひそめ、声に不快をあらわした、とある・・・。

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 09:37 | Comment(0) | 連載長編小説 当ブログ用