2009年12月31日

今年も、全国各地の各位様、皆々様には本当に御世話になりました。菅靖匡、心から感謝しきりです。どうぞ、よいお年を!!そして、また来年も宜しくお願い申し上げます。合掌

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愛媛国縁起


おもしろきことも無き世をおもしろく・・


『愛媛国縁起』
【乃麻埜(のおの) 『媛国攻陣始末記』を物語りて・・・】

 呼び出された覇津華雅(はつかが)も、これには弱り切っていた。何せ、女性には縁遠くしている男であり、酒を呑むだけにとて、遊郭なんぞには登楼(のぼ)った事などない。どころか、馬で楼閣の門前を横切る事すら忌み嫌うほどの者なのである。
 他所なら乗り込んで説教もできようが、どうにも場所が悪過ぎた。
「吾など、すでに傅人(めのと)役を解かれておりまするわい」  と、いっそ開き直ったものである。

 確かに、傅人役は初陣まで、というのが慣習であった。とは云え実際の覇津華雅は、今でも傅人のつもりで、何かにつけて
「若様、若様」
 とうるさく、都祢那賀(つねなが)の世話をやいている。
それが、この時ばかりは手をつけかねており、苦し紛れにも、解任されている、と云うのであった。

 こなた汰雅志嘉(たがしか)とて、その立場上、楼閣などに足を踏み入れるわけにはゆかない。
「うぬが傅育した者ぞ。何とかせい」
 どうでも早々に連れ戻せ、これは命令じゃと心得よ。
命令と云われれば、骨の髄まで軍人である覇津華雅には、もう逆らう術(すべ)などなかったであろう。
 彼は、ただちに殊里(しゅり)を呼びつけ
「若様を引っ張り出せやい」
 これも、命令じゃ、と云った。

 ともかく殊里は、云いつけに従って三度出向き、三度つき合わされている。一度めは・・
「やあ、酒につき合え」
 と引き込まれ、二度めには・・
「女競べぞ」
 と誘われて帰れず、三度めには・・
「阿呆っ、親や爺様などが怖くて戦ができるかっ」
 と怒鳴られて、逆に二晩ばかりもつかまってしまった。

 四度め、覇津華雅に
「ゆけ」
 と云われた時には
「親父殿、もう勘弁して下され。吾の手にはおえませぬ」
 と、ついに泣きを入れている。これが、都祢那賀が登楼しては逗留しきりの、ついに二十日め頃であったろうか。
 それから間もなく、都祢那賀は自ら出てきた。何という事もない、出陣のためである。

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 07:22 | Comment(0) | 邪馬台国物語

2009年12月30日

バンド仲間の紹介で近ごろハマッている、デニーロっていうショットバーに、31日カウントダウンパーティーとて誘われました。鼻風邪をおして、ちょこっと顔出ししたいと思ってます。御縁に感謝しつつ合掌。

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愛媛国縁起


おもしろきことも無き世をおもしろく・・


『愛媛国縁起』
【乃麻埜(のおの) 『媛国攻陣始末記』を物語りて・・・】

 都祢那賀(つねなが)が、初めていたした女性の名などは、ついに分からない。ただ、その陰部を見いって・・・
「そちも女神かよ」
 と、驚いたらしい。
阿呆な話で、さらによく見ては・・
「違うな。黒子(ほくろ)がないわ」
 と甲高く叫び、今度は、とうの婢(はしため)の方が驚いている。
 その婢を三日三晩も離さず、四日めの朝に女を変えた。それから夜毎に変えたが、好みにうるさい。半月ほどで楼閣中の美女を抱き・・・、いや、いっそ抱かれた、と云った方が近かろう。
「なるほど、いいものだ」
 と、上機嫌で手を打った頃には二十日あまりが経っている。

 都祢那賀登楼、しかも逗留(いつづけ)、の噂は、たいそう足が速かった。彼が登楼した日の夜半には都の辻々で
「都祢那賀様が、初めて登楼(のぼ)ったんやて」
 とささやかれ、三日めの夕暮れには
「逗留とるらしいで」
「戦も早熟やが、あっちも早熟(ませ)とるのう」
 などと云われている。

 何と宮中の巫女達の間でもこの噂がもちきりで、当然のごとく、兵士達の内には嘉汰耶(かたや)屋敷に知らせる者もあった。いつの世も、賢しらげな節介に過ぎる諂者(べんちゃらもの)はいるらしい。ただし、嘉汰耶は・・
「陣立や差引なども板についてきたしのう。もはや、あれも男じゃ」
 などと、さも嬉しげに破顔(わら)い
「わしからの引出物(ひきでもの)とて、極上酒(ごくじょうのささ)など届けてやれ」
 と云った。

 それでも、つい血相を変えて
「覇津華雅(はつかが)を呼べ」
 と云ったのは、都祢那賀の実父たる汰雅志嘉(たがしか)であった。実母の撫子(なでしこ)などは、仰天のあまりに寝ついてしまった、という。確かに、両親にとっては、これ手ばなしに喜べる話ではあるまい。

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 07:41 | Comment(0) | 邪馬台国物語

2009年12月29日

高齢化と過疎化のすすむ地域を走る路線バスに乗ってみました。なんと、乗り込んでから目的地までの間、僕ひとりの貸し切り状態でした。さまざまな意味で、これは大変なことだ、と実感した次第です。

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愛媛国縁起


おもしろきことも無き世をおもしろく・・


『愛媛国縁起』
【乃麻埜(のおの) 『媛国攻陣始末記』を物語りて・・・】

 ところが都祢那賀(つねなが)、これが何度めの出陣の後であったろう。
「殊里(しゅり)、俺も連れてゆけ」
 と云い出した。近ごろ、うぬが生き生きとしているのは、例の 場所に出入りしているからであろう、と云うのである。
例の場所とは、兵士の慰安所として設けられている楼閣のことで、馳走を食らい酒を呑めるばかりか、思うさまに女性を抱ける。
 そんな酌や伽をつとめるのは婢(はしため)であり、ほとんどが畿内地ばえの、戦に負けて奴に堕ちた兵士の内儀や娘などが多い。恭順して優遇される都人や農民達の中でも、何かしらの罪にとわれたり租税を納め切れず、ついに婢に堕ちる女達もいるのである。どちらにせよ、女性にとっては辛い境遇であったろう。
 しかし・・・
《十日間、気ままに出入を許す》

などというのも恩賞の内であるほどに、戦場で生命をすり減らす兵士達には雲上の心地する場所であったに違いない。

 殊里は、もう十四を過ぎて大人なのである。酒と女の味を覚えておかしくはない年頃であった。が、都祢那賀はどうであろう。早熟というにも早過ぎはしまいか、とも思うのだが・・
「俺もゆく」
 そう云ってきかない。そこはそれ、殊里も若いのである。
まだ、覇津華雅(はつかが)ほどの分別などはあるまい。
「それは、よいものでござるぞ」
 と、むしろ都祢那賀を、たきつけたりした。
「どっちがだ」
「酒も女性も、両方にござる」
「ふん、どうせ、自身で知らねば分からぬわ」
 これが万事、都祢那賀の気質でもある。己自身の五感と第六感で確かめたものでなければ信じないし、納得もしない。
 戦場でも同じ癖で、つねに最前線に布陣し、自身の肌身で敵を感じつつ差し引きした、という。凝り性の所以も、ここいらあたりではあるまいか。
「されば若様、吾が先達をば仕りまする」
 殊里が得意げに請け負ってしまった後が大事(おおごと)であった、とある。凝り性が、もろに出た。逗留してしまったのである。

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 08:32 | Comment(0) | 邪馬台国物語

2009年12月28日

じつは今年は、仕事としては七ヶ月あまりも怠けていたことになりました。もっとも自分としては、これまでの自堕落な生活をあらためるための必要時間・・、と言訳してます。

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愛媛国縁起


おもしろきことも無き世をおもしろく・・


『愛媛国縁起』
【乃麻埜(のおの) 『媛国攻陣始末記』を物語りて・・・】

 都祢那賀(つねなが)の初陣、この子としては勝ち切り、それまでの邪馬台国軍としては敗し切った、のかも知れない。
 これより後の数年間を嘉汰耶(かたや)と汰雅志嘉(たがしか)、それに覇津華雅(はつかが)、つまり当時の大人衆などは新しき邪馬台国軍を仕上げる事に忙殺された。
 同時に、神武(かみたけ)軍の落人掃討戦やら、各地で勃発する内乱鎮圧なども放ってはおけない。
 さらには、大陸との交易によって入手した新兵器の自国生産や実戦配備など、武装充実も急務とされている。

 都祢那賀の内でも初陣以降、何者かが開眼覚醒したかのようであり、もともとが凝る質(たち)に生まれついている。若さゆえにものを知らぬ、という事もあろうとて旧態にとらわれぬ彼の発想は斬新であった。
 が、ただし、である。都祢那賀の実務といえば出陣を重ねて転戦するばかりで、その前後の軍備調整などは一切を覇津華雅以下の諸将達に任せ切っており、平時は放蕩の限りを尽くして過ごした、という。それがため覇津華雅などは、夜も充分に寝られぬほどに働かねばならなかった、というのである。

 さても都祢那賀の、その放蕩ぶり、もはや子供のそれではなくなった。
「どうにも弾まぬ」
 と云う。初陣までは、狂とまで噂されたほどに好んだ狩猟(かりくら)について、 である。彼の癖で理由の詳細などは述べないが、いぶかしむ殊里(しゅり)や覇津華雅に対しては、ただ
「飽いた」
 とだけ答えている。
「すでに若様には狩猟などより出陣の方が面白うおわしますのじゃ」
「まこと敵を追い散らすは獣を相手より骨ですが、それだけに甲斐もある」
 覇津華雅と殊里は、そんなふうに納得していたようであった。

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 07:06 | Comment(0) | 邪馬台国物語

2009年12月27日

鼻風邪をひいていると、味覚がなくなるのでしょうか?!何を飲食しても、なんだか味気ないです。せっかくの御馳走が、もったいない気がします。合掌

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愛媛国縁起


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『愛媛国縁起』
【乃麻埜(のおの) 『媛国攻陣始末記』を物語りて・・・】

【云わでものことながら、歴史には裏表がある。我々が学習し、知識として保ち得ているのは、勝者もしくは強者の来歴に違いなく、敗者や弱者のそれに陽のあたる事は稀(いっそ皆無かも知れぬ。)と云っていい。歴史に〈もしも〉はない、という表現の意味するところを、単純な結果論であるから、とは受け止めず、あたかも〈運命〉とか〈必然〉と解釈しがちだが、歴史を創るのは天然力(大宇宙の摂理)だけではあるまい。その時代を生きる人間達の、ちょっとした気まぐれや好悪が、ひいては裏表の重要な境界を定めてしまう事も少なくないのである。ただし、宇田(うた)なる男の話が真偽いずれか、という問いには、乃麻埜とて、ついに確たる正解を導けずにいる・・。】

 ともあれ邪馬台国、勝つには勝った。が、嘉汰耶(かたや)が畿内に侵攻して後、卑弥呼(ひみこ)を女王として造り上げてきたものの、すべてを失った、と云って過ぎない終戦でもあったろう。
彼の軍事才能の結晶とも云うべき軍団が、この戦で消滅してしまったのである。

《どうせ勝つならば、勝ち切る事ぞ。敗する時には、敗し切る事が肝要だ。なまじ燃え残りてくすぶる焼跡に、新しきものは建てられまい。風に吹かれ飛ぶ灰塵と山河を染めるほどの流血の上にこそ、真に新たなる芽吹きが見いだせるというものだ。》

とは、これより数年の後、正式に後継として認められた都祢那賀(つねなが)が、その配下たる幕僚将帥達に訓戒する言ノ葉である。

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 07:35 | Comment(0) | 邪馬台国物語

2009年12月26日

忘年会などと称しては・・、何度、年を忘れたのか、自分でも分かりません。ええ加減にしとこ・・、とは想いつつ、また今夜も忘れにいきます。合掌

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愛媛国縁起


おもしろきことも無き世をおもしろく・・


『愛媛国縁起』
【乃麻埜(のおの) 『媛国攻陣始末記』を物語りて・・・】

〈世間では、都祢那賀(つねなが)様は軍神でありましょう、と信ずる事のよしを・・〉

「御意。少なくとも長じて後の若様には、稲光【いなひかり=稲妻=いなづま、とも書く。雷光の事である。稲穂が実るのは、天空に鳴り響いて光り落ちる、まさにこの雷光のおかげである、と古代の人々は信じていたらしい。語源は稲に種付けする夫、であろう。】のごとき威風がおわしましたる事など、万民ゆめ疑いの無いところでござります。されど初陣におかれましては、何とも云い難し。神武(かみたけ)を退けたるは覇津華雅(はつかが)様の軍慮にて、かつ神武軍の自滅、つまりは酒に酔いたる上での痴話喧嘩を敵襲と錯覚した事により、自ら壊乱した事などが重なりての幸運にござるよ。思うてもみなされ、当時の若様は十歳ばかり、子供に何の軍慮がござりましょうや」

 この他には、遠海(えんかい)や紗貴(しゃき)との事、唖毘卑鈷(あびひこ)と長髄彦(ながすねびこ)の最期に関する都祢那賀の雑言などについて語っているのだが、どれもが都祢那賀に好意的でない。

 こうした宇田(うた)の物語を聞いた台余(とよ)が賢明であった証には、これを削除する事なく異見異聞の挿話として書き残したのである。挿話のしめくくりは・・

《宇田、これは斗羅雄(とらお)の実子なり》

という簡潔なものであった。

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 08:10 | Comment(0) | 邪馬台国物語

2009年12月25日

現在日本の飽食家方が云う、粗食、なるものも含めて、僕は、いわゆる昔ながらの食物が大好きです。もちろん産地偽装などの無い、日本産の食材を望みます。あらためて、頂きます、御馳走様でした、の意味を思い出しませんか?!

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『愛媛国縁起』
【乃麻埜(のおの) 『媛国攻陣始末記』を物語りて・・・】

〈百草山の事など・・・〉
「若様は馬の達者にて、山へ逃げ込むには造作もありませなんだ。されど戦場では気が違うたかのように泣き叫び、頂へ隠れて後も泣き続けておられました。そこへ覇津華雅(はつかが)様と殊里(しゅり)様が戻ってこられ、何とか、お慰めしようと苦慮なされておられましたわいなあ。周囲の兵士達などは、すっかり気落ちして滅入ってしまい、吾とて、もはやこれまでじゃ、と覚悟をしたのでござります。皆から離れた所にて覇津華雅様が、いかにすれば泣き止んで下さるか、と若様に問いかけましたところが、若様は泣きじゃくりもて・・、大吉(だいきち)などと嘘を云うた神子(かみこ)を斬れ、と申されました。知ってのとおり、神子と申せば宮から直々に遣わされた、いわば女王様の名代。また覇津華雅様は、あれで、なかなかに信心深い大将帥(たいしょうすい)様にて、この時の驚きようは言ノ葉に尽くせませぬわい。そればかりは出来ませぬ、と何度も繰り返し説得なされておいでやった。若様は生来、気性のはげしいお方でしたから地団駄踏んで、俺に恥をかかせる気か、と泣き叫んでおられましたわい。すると覇津華雅様が、にわかに態度をひるがえして神子に近づくや、済まぬ、とわびた次の瞬間には、神子の頭が真二つに割れておりました。なるほど、生きて帰る事ができたなら、神子の報告にて若様の醜態が世間に知れるところともなりましょう。覇津華雅様とて、このあたりの気配は、分かりませぬぞ。若様の傅人(めのと)としての面子(めんつ)がござりましょうし、初陣を後見したる大将帥としての地位も危うくなりまするしなあ。死人に口無し、とでも申しますか、若様と御自分の保身のためとて神子の口を封じるには、殺すより他ありませぬわいなあ。都に帰った時に有無を云わさず九市(くいち)様を斬り殺したのも、同じ理由と推してさしつかえありますまいよ。吾ら兵士にすれば、敵とやり合うて死ぬならまだしも、味方に斬られるのでは浮かばれませぬからな、神子が斬殺された後には、我ら軍兵、それこそ死力を奮い立たせて働くしか、仕方ありませなんだ」

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 06:26 | Comment(0) | 邪馬台国物語

2009年12月24日

想えば、クリスマスと縁を切って久しいです。諸外国から来日しては、個人的に親しくしていた英語教師たちから、日本人のバカ騒ぎとして、まず一つにはクリスマスを指摘されたのがキッカケです。今も、そのとおりだ、と思っています。

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愛媛国縁起


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『愛媛国縁起』
【乃麻埜(のおの) 『媛国攻陣始末記』を物語りて・・・】

《都祢那賀(つねなが) 初陣異見異聞挿話》

〈まずは名を問われて曰く・・・〉
「吾の名を宇田(うた)と申しまして、都祢那賀様が初陣の折節には馬廻役を仰せつかった者にござりまする。先の戦にて滅した、と思われておりました神武(かみたけ)なる敵将を葛城山には登らせじ、とて邪馬台国の兵馬総揚げの出陣でござりましたなあ。吾ら雑兵が、まず驚げましたる事と申せば、国の大変というに、嘉汰耶(かたや)様も汰雅志嘉(たがしか)様も出陣せなんだ事に尽きまするわな。いや、出陣(で)るにはでたが、まったく働きませなんだのよ・・。」

〈軍陣容のあらましを確認せられたる際に・・・〉
「御意。御大将は唖毘卑鈷(あびひこ)様、副将頭が実弟君にあらせられまする長髄彦(ながすねびこ)様にて、吾が仕え奉る都祢那賀様は次副将を仰せつかり、勇智無比と名高い覇津華雅(はつかが)大将帥(だいしょうすい)様を幕僚となされての初陣にござりました。馬廻りに抜擢された吾などは足下に雲を踏むような心地にて、組内の兵士どもは無論の事、親戚縁者にも鼻高々でありましたなあ。一万と二千余の軍列をなして都を出る時には、金銀錦(きんぎんにしき)で飾った御馬の上におわします都祢那賀様の、熊毛威しの甲冑がよう似合うておられまして、手綱をあずかる吾の両肩にも風が、ぶんっ、と、うなっておりましたわい。今は昔とは申せ、まるで昨日の事のような気のいたしまする」

〈九市(くいち)将帥顛末に及びての応じたる事・・・〉
「いやいや、九市様が陣を離れましたるは、左様な次第ではござりませなんだ。葛城山は昨夜来の雨に濡れ、竹ノ内から上り坂の山辺道はぬかるんで滑りまするが、何とか平石峠まで登りきり、布陣を終えた頃に夜が明けました。軍議の必要を認めず突撃粉砕あるのみ、という唖毘卑鈷様本陣よりの使番が参りました時、吾は陣幕の外で馬に飼料を食らわせておりましたが、陣幕の内では覇津華雅様の野太い声がしておりましたなあ。布陣してから、ずっと、べそべそ、と泣き止まぬ都祢那賀様をなだめすかしておられたのです。神子(かみこ)が大吉を告げると、いや大凶ぞ、と泣きわめく若様の甲高い声がし、暫くすると九市様が陣幕をはね上げて出て参られ、なるほど噂にたがわぬ狂(たぶれ)様よ、と大溜息(おおためいき)をつかれました。御自ら大凶を望む者には従えぬ、と申された時に、すわ長髄彦様方の一斉突撃が始まったのですわい」

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 09:54 | Comment(0) | 邪馬台国物語

2009年12月23日

昨夜の極楽寺冬至水行は、まこと厳しい修行でありました。例年にも珍しい冷え込みのなか、石鎚より吹きおろす強風にもさらされ、川から出たのちには歩行さえ、ままならぬほどでした。あらためて、生命に有り難く、有り難く感謝です。合掌

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『愛媛国縁起』
【乃麻埜(のおの) 『媛国攻陣始末記』を物語りて・・・】

『媛国攻陣始末記(ひめのくにせめじんしまつき)』という古書は不思議である。卑弥呼(ひみこ)亡き後の邪馬台国女王を継いだ巫女である、台余(とよ)という女性が著した、という。
 彼女の名は、口訳してくれた出雲巫女も知っており、何より大陸の正史『晋書』にも記されているから、実在した事は疑いもないのだが、そもそもは女性なのであり、戦場や陣中の事どもを実際に見聞する機会などは無かったのではあるまいか。
 吾【あ=乃麻埜】が不思議と思うは、そこである。詳しすぎる、のである。もっとも『媛国攻陣始末記』は、物語というより履歴書という方が近い書式で綴られており、その骨子に、吾がつたない筆を励ましつつ、肉付けなどして血を通わせようとしているものだが、それにしても微細な記述には驚くばかりである。

 まあ、語部(かたりべ)のごとき者が居た、とせよ。
おそらくは都祢那賀(つねなが)の側近、もしくはそれに準ずる者であろうし、これほど詳細に語りえる者なら、したがって、しっかりと名を残してしかるべし、とも思うのであるが、それが無い。

 ただ、前述の都祢那賀初陣のくだりには異聞があって、その異説を語った数人の名のみは、はっきりと記されている。
まずは宇田(うた)という名がでており、彼の語った異説から以下に書きとどめておく。

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 09:08 | Comment(0) | 邪馬台国物語

2009年12月22日

本日の宵闇には、石鎚山真言宗総本山極楽寺にて、毎年恒例なる冬至水行が厳修されます。今日までの反省と、明日からの多幸を祈念しつつ、加茂の清流に身をさらして参ります。合掌

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『愛媛国縁起』
【乃麻埜(のおの) 『媛国攻陣始末記』を物語りて・・・】

 さて、この一戦は夜明けを待たずして、都祢那賀(つねなが)の思惑通りに終結した、とある。
 覇津華雅(はつかが)と合流した後の都祢那賀が、戸板に乗った老人に下知して鈷卯挫威(こうざい)と樹久砕(きくさい)を働かせ、鍬鋤を携えたにわか兵士達にやらせた事は、近江海の土手【堤、堤防】を決壊させる土木作業である。
濁流もて下手の盆地に野営する東日流軍陣を圧し流し、かつ水浸しにして壊滅させた上で、覇津華雅軍に矢槍剣を馳走させた。

 東日流国(つがるのくに)が、例えば邪馬台国のような強大軍事国であったなら、むしろ小勢の都祢那賀が危うかったかも知れぬ。 が、史実によれば東日流国は、いわば権謀術数をして他国と対する国であり、ようは実戦すべき軍兵は劣弱であったらしい。
 ともあれ、こうして都祢那賀の初陣は二夜にわたる劇的勝利のうちに収まった、というのである。

【『愛媛国縁起』の一行には《『媛国攻陣始末記』なる古書は不思議なり。》、とある。その不思議さを、乃麻埜は感じたままに書き残している。『媛国攻陣始末記』の中から抜粋したという、都祢那賀初陣異見異聞挿話、という一頁で、以下に現代語訳を記してゆく。】

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posted by 歴史小説家 菅靖匡 at 07:41 | Comment(0) | 邪馬台国物語